コラム

社会的復権を語ろう コラム連載「社会的復権について〜私の実践」


 連載にあたって

 2020年度の全国大会・学術集会は札幌で開催されます。「札幌」ときいて「宣言」を思い浮かべる方が本協会には少なくないことでしょう。
あれ、そんなことないですか?

 「何の宣言か知らない」というあなた、本当に構成員ですか。・・・なんてカタいことは言いません。けれど、これから約3週間ごとに更新されるこのページを読んで考えるきっかけにしていただければと思います。

 札幌宣言とは、精神医学ソーシャルワーカーが関与したY問題というできごとをきっかけに、私たちの先輩(現役の方もいらっしゃいますが、年配者が多くなりました・・・)が自分たちのありようを見直し、協会の存在する意味を追究した結果「精神障害者の社会的復権」を協会の目的として1982年に表明したものの通称です。

 それから40年近くを経た2020年に札幌で全国大会が開かれることを契機に、地域生活支援推進委員会と精神医療・権利擁護委員会による権利擁護部合同プロジェクトを立ち上げ、「精神障害者の社会的復権」について現代の課題を改めて考えてみようと思います。既に愛知大会や2019年9月のブロック会議でのアンケート調査をはじめ、各都道府県支部でもこのことについて考える機会の提供が始まっています。

 「精神医学ソーシャルワーカー」はもう古い、これからは「メンタルヘルスのソーシャルワーカー」だという考えは私たちの間にずいぶん浸透してきたように思われます。けれど、精神障害のある人の福祉、その手前の「社会的復権」は既に成し得たといってよいのでしょうか。この言葉のとらえ方は様々で、あまり意識したことがない、意識はしているけど実践していない、言葉として聞いたことがない、など、自分には関係ないと思っている方もいらっしゃるかもしれません。しかし、身近に取り組めることはないでしょうか。WEB連載を通してご一緒に現代の社会的復権の課題について考えられればと思っています。

 合同プロジェクトは、下記のメンバーで話し合いを進め、2020年の北海道大会で取組結果の報告を予定しています。連載をご一読いただきますようお願いいたします。

 公益社団法人日本精神保健福祉士協会 副会長 田村 綾子

 もくじ

No タイトル 執筆者  掲載日(予定含む)
1 第1回
社会的復権について〜私の実践
吉澤 浩一 地域生活支援推進委員会 副委員長
相談支援センターくらふと
2019年11月8日 
2 第2回
「社会的復権」を考える〜精神科病院での実践を通して〜
 
山本 めぐみ 精神医療・権利擁護委員会 副委員長
浅香山病院
2019年11月29日
3 第3回
「社会的復権」を考える〜私が想う精神保健福祉士の社会的使命とは〜
徳山 勝 地域生活支援推進委員会 委員長
半田市社会福祉協議会 半田市障がい者相談支援センター
2019年12月20日
4 第4回
いま、できること
田村 綾子 担当副会長
聖学院大学
2020年1月20日
5 第5回
「社会的入院の解消」から社会的復権を考える
金川 洋輔 地域生活支援推進委員会 副委員長
地域生活支援センター サポートセンターきぬた
2020年2月25日
6 第6回 私にとっての社会的復権とは
〜「ごく当たり前の生活」の実現を目指して〜
尾形 多佳士 精神医療・権利擁護委員会 担当部長
さっぽろ香雪病院
2020年3月23日
7 第7回
社会的復権と私の実践
 NEW!
岩尾 貴 精神医療・権利擁護委員会 委員長
くらし・しごと応援センターはるかぜ
2020年4月28日
8   有野 哲章 地域生活支援推進委員会 担当部長
蒼溪会
2020年5月下旬
* 日本精神医学ソーシャル・ワーカー協会宣言(第18回札幌大会)―当面の基本方針について―(1982(昭和57)年6月26日)

※執筆者所属は2020年4月現在のもの

 

第7回 社会的復権と私の実践

岩尾 貴
(精神医療・権利擁護委員会 委員長/くらし・しごと応援センターはるかぜ)

1.子どもの頃の私

 私の父はPSWで、私は子どもの頃に精神科病院の隣に住んでいて、病院の患者さんたちは身近な存在だった。その病院は、開放化に取り組んでいて、入院患者さんたちは、自由に買い物に出かけ、病院の中に患者さんたちが運営するサロンがあり、天気のいい日はソフトボールをしており、よくそこに交ぜてもらって遊んでもらった。病院では、バザーや夏祭りなどが地域住民の参加のもと行われており、参加するのが楽しみだった。患者さんたちは、私によく声をかけてくれたし、とてもやさしくしてくれていた。またその病院は、認知症の人のケアにも取り組んでいて、高校生の時に病院併設の認知症専門の老人保健施設でトイレ掃除のアルバイトをしながら、認知症の人たちと交流していた。
 一方、友人たちは、入院している患者さんを差別用語で呼ぶことがよくあり、また学校の先生が「そんなことをすると○○病院に入れるよ」と言ったこともあった。社会は、病院や患者さんたちのことを差別的にとらえており、私の知る患者さんと世の中の精神障がい者のイメージは大きく違っており、世の中では理解されていないことを感じていた。
 大人になるにつれて、PSWである父が病院の開放化や共同住居、作業所の設立、家族会、断酒会の支援や認知症の人のケアなどに取り組んでいることを知り、私も患者さんの役に立つ仕事がしたいと考えPSWを目指した。

2.学生時代の私

 福祉系の大学に進学し、柏木昭先生に師事し、精神医療の歴史や日本は精神科病院の病床数が多く入院期間が非常に長いこと、住む場所や働く場などの支援が制度施策として脆弱であることを学び、私が子どもの頃から感じていた社会の精神障がいに対するスティグマや、差別偏見による病気や障がいの理解の無さが、地域の中で暮らすことを一層困難にしていることを知った。そして、何よりも当事者とかかわりを持つことや自己決定の重要さを学んだことは、私自身の実践基盤となった。さらに、Y問題を教訓化し、PSWおよび協会活動の基本方針として「精神障害者の社会的復権と福祉のための専門的・社会的活動をすすめること」を学び、人権と権利擁護について意識するようになった。
 学生時代に見学したやどかりの里では、病気や障がいがあっても「ごくあたりまえの生活」の実現を目指し、多くの長期入院者がここを拠点として、アパートで暮らしていた。加賀のぞみ園では、認知症の人のどんな行動もいわゆる「問題行動」とはとらえず、行動の意味を考える「かかわり」を重視して理解することにより、行動を制限せず生活を保障しようとする取組を行っていた。PSWはクライエントが自らの生活問題に主体的に取り組み、またどのような地域生活を送るかを自らが選択することを支持する立場に立つものであり、ソーシャルワーカーとして何よりも関係性を軸にしたクライエント自己決定の原則が実践理念の中核であることを私は師から学んだ。

3.私の実践

 大卒後、県立の精神科病院に就職した。病院がある地域では、ようやくグループホームを一つ立ち上げるような時で、精神保健福祉士の国家資格化の少し前だった。社会資源は少なかったが、不動産屋や職親を患者さんと一緒に訪ね、地域に訪問に出かけ、時間があれば病棟で過ごした。病棟での相談からアパートや仕事探しなど生活にかかわることなら何でもやった。職親制度を使って仕事をする人が増え、借りられるアパートも少しずつ増えていった。当時、賃貸契約や就職活動の際、精神科受診歴を伝えるかどうかを話し合うことも多かったし、職場で薬を飲む姿を見られたくないからと薬をやめ不調になる人もいた。障がいをかかえて暮らすことの生きづらさは、障がいに対する理解に乏しい社会に起因することもあるのだと思った。一方で、理解してくれる不動産屋や職親は貴重な存在であった。当事者が地域で暮らし、働くことで地域住民や雇用者との間にかかわりが生まれ、理解が得られていく、そこに伴走することがPSWの役割であり、当たり前の暮らしを奪われていた精神障がい者の当然の権利を回復するという私自身の実践のあり方でもあった。

4.当事者との協働とチャレンジ

 就職してから20数年が経った今、住むところや暮らすことを支援する施設や制度は随分増え、多くの人たちが退院し、地域で暮らすようになった。それでもなお精神科病院に入院している2/3の人たちが1年以上退院できずにいる。高齢化が進み長期入院者の半数以上が65歳以上である。医療の構造の問題なのか地域支援の弱さなのか、それともほかに欠けているものがあるのか。何が精神障がい者の復権を妨げているのだろうか。
 県職員として20年の間、行政の仕事にも携わったが、精神科病院からの地域移行は思うように進まず歯がゆい思いをし、当事者と共に地域から現状を変えたいと考え、民間の事業所に転職することにした。
 Aさんは「終の棲家」と言われる特養から脱出した。ケアハウスに転居し、私の勤める事業所の就労継続支援B型事業所を利用し、施設外就労で病院内のレストランで働いている。力を発揮できずにいたAさんは自らB型を利用し、本来の生活を取り戻そうとされた。私の勤める事業所や特養のPSW等が地域で暮らしたいというAさんの真のニーズを支援した結果だと思う。特養などの施設には地域や家族の都合により入所を余儀なくされている人もいる。所謂“権利の行使”が社会の仕組みにより奪われている方が多くいる。現在のAさんの姿は、障がいがあり高齢になっても諦めなかったAさんの意思と支援者の可能性へのチャレンジがB型への就労に結び着いた結果である。私たちPSWは当事者の求めている生活の実現へ向けてどのようにチャレンジし続けるかが問われていると考える。PSWは当事者が自ら取り組むプロセスに寄り添い、社会的権利である当たり前の生活を取り戻すために協働する。そのための受け皿となるトポス(場)を創造する。当事者の経験の語りを受け止め、かかわり続ける。私はそのような実践家でいたいと思う。

※「障害」表記は、執筆者の記載のとおりに掲載しました。


第6回 私にとっての社会的復権とは〜「ごく当たり前の生活」の実現を目指して〜

尾形 多佳士
(権利擁護部部長/さっぽろ香雪病院)

1.恩師に囲まれる日々

 北海道の大学在学中に「精神保健福祉士」という新しい国家資格が誕生したことを知った。社会福祉士を取得してMSWになることを目指していた私は、「よく分からないけどもう一つ資格を得るチャンスだ」と単純に喜んだことを覚えている。3年生からは両資格を得るために、谷中輝雄先生と佐々木敏明先生を中心とする著名な講師陣による新カリキュラムがスタートした。二人の恩師は「Y問題」や「札幌宣言」、そして「社会的復権」というキーワードに特別な思い入れを込め、そのエッセンスを熱く伝えてくれた。PSWとしての情熱を肌で感じ、優しく温かい人の輪の中でY問題や札幌宣言の重要性が心に刷り込まれていった。しかし、「社会的復権」の言葉の持つ意味を深くは理解していなかったように思う。

2.一人のPSWとの出会い

 4年次には浦河町という北海道の小さな田舎町で精神保健福祉士の実習をした。総合病院のMSWとして、また精神科部門でのPSWとして、さらにその町のコミュニティソーシャルワーカーとしての顔を持つスーパーバイザーである向谷地生良さんの実践に私は惹かれていった。ある日、興奮状態で複数の看護師に押さえつけられ、抵抗しながらも保護室へと連れていかれそうな若い患者さんが、「向谷地さん呼んで!向谷地さんと話をさせて!」と必死に助けを求めた。院内PHSで呼ばれた向谷地さんは、彼の元へ急行し、「〇〇くん、助けにきたよ!」と一声を放ってすぐに面接を開始した。数十分間、向谷地さんは彼の話をひたすら傾聴した。時に彼の言動を肯定する言葉を投げかけていた。面接を終え、すっかり落ち着きを取り戻したその患者さんは何事もなかったかのように元の病室(4人部屋)へと帰っていった。一連の様子を見ていた看護師、そして、その患者さんの安心した表情は今でも忘れられない。その後の振り返りの中で、向谷地さんは「すぐに薬や注射、隔離や拘束という手段に頼ってしまうことが多いけど、私は『対話』を大切にしているんだよ」と教えてくれた。一人のPSWの面接(対話)が患者の症状をも回復させる可能性があることを実感し、私も将来はこういう実践をしたいと強く憧れた。精神保健福祉士として病院で就職することを決めた一つのきっかけだった。

3.精神科病院の精神保健福祉士として

 大学を卒業した私は札幌市内の病院に精神保健福祉士として就職した。実習先で見てきた精神科医療(NO拘束、NO長期入院)や地域の精神障害者の暮らし(病気や障害を開示して地域に溶け込む)、PSWとしてのクライエントとのかかわりやスタンス(物理的・心理的距離)の何もかもが違い、戸惑いを覚えた。「普通」や「当たり前」って何だったんだろう?と疑問を持つようになった。「この人はどうして毎日拘束されている?」「なぜみんな口を開けて一列に並んでいる?」「強制入院なのに何で医療費は患者さんが支払うの?」「せっかく退院できるのにどうしてアパートを貸してくれないの?」「買い物しただけで隣のコンビニから苦情?」
 とにかく「なぜ?どうして?」がしばらくは頭の中を駆け巡っていた。そして、自分が生まれる前から入院している患者さんや「一生病院でいい」と言ってしまう何人もの患者さんと出会い、学生の頃に習ってきた社会的入院や長期入院という国家的課題を目の当たりにした。

4.疑問が疑問じゃなくなった!?

 学生の頃の教育と現場での実感から、精神保健福祉士の使命は「長期入院の解消」であると捉えていた私は、一心不乱に実践しようとしていた。この役割は病院PSWの責務であると思っていた。しかし、そう意識する日々はほんの束の間で、いつしか「退院できない現実」が本当にあることに気付かされた。病院の管理者や主治医の方針、家族の反対、本人の退院意欲、地域の受け皿等の問題は思った以上に根深く強固で、病院スタッフの退院を推し進める熱意のなさや、長期入院者を迎え入れるはずの行政や地域の福祉職の意識の乏しさが後押しし、しだいに私は無力感に苛まれて多くを諦めていった。心の中で言い訳をするかのように「仕方ない」とも思うようになり、これまでの「疑問」も感じなくなっていった。自分の非力さを正当化し、長期入院者が退院できないことは仕方ない、隔離も身体拘束も強制入院も仕方がない、「だって他に方法がないじゃないか」「退院したら家族や地域が困る」「浦河と札幌は違う」「制度がそうなっている」「違法じゃないんだ」と疑問を持つこと自体に蓋をして、見て見ぬふりをするようになってしまった。

5.「ごく当たり前の生活」の実現へ向けて

 まだ退院は早いと思うのに期日内に退院先を探すことを求められたり、逆に退院準備を進めたいのにまだ早いと主治医から釘を刺されたり、いくつものジレンマを感じながら自分のメンタルヘルスを保つために職場に順応することが何より優先された。あれだけ疑問に思っていた現実から目を背け、経営側に立った考えに侵され、地域や社会という視点が欠如し、理想とは程遠い実践だと自覚していた。そんな折、地元のPSW協会や地域の連絡会等でどんどん活躍する大学の同期や後輩らに刺激を受け、「このままではダメになる」と思い、就職4年後、谷中先生に師事することを決意して大学院に進学した。そこで「ごく当たり前の生活」を目指した実践の重要性を復習した。「ごく」という言葉に込められた意味を再認識した。それは、その人らしい生活を保障すること、その人自身が大切にしている生活を尊重することであり、私はこれこそが「社会的復権」なのではないかと思うに至った。社会的復権とは、狭義には「長期入院の解消」であり、広義には「ごく当たり前の生活の実現」であると思う。何をもって当たり前とするかは個々によって異なる。しかし、これが当たり前の現実なのか、当たり前の姿なのか、当たり前の選択なのか、当たり前の実践なのか、その人にとってのごく当たり前の状況なのか、このようなことを絶えず考え吟味し検証する。そして、志を一にする専門職仲間やクライエント本人とこのことを語り合い、ごく当たり前の生活を伴に求め続けることが重要である。自分の使命であると捉えていた「長期入院の解消」に寄与できない現実に疲弊して自信を無くしていた私だが、「ごく当たり前の生活」という概念に深く出会って視野が広がった。もっと身近なところで、やれる範囲で頑張ればいいと思うようになった。私はクライエントの「ごく当たり前の生活の実現」という「揺るがない目的」を持った精神保健福祉士のすべての実践が社会的復権への関与だと思う。


 

第5回 「社会的入院の解消」から社会的復権を考える

金川 洋輔
(地域生活支援推進委員会 副委員長/地域生活支援センター サポートセンターきぬた)

1.精神保健福祉士になるまでと退院促進支援事業(現:地域移行支援)まで

 高校を卒業してしばらくふらふらとした後、何となく心理学系3年制の専門学校に入った後にたまたま精神科クリニックのデイケアに就職することになった。偶然にもその年に精神保健福祉士という国家資格ができたということを耳にしていたが自分には関係ないことだと思っていた。数年後、自分の先々を心配してくれた職場の先輩の精神保健福祉士や、何人ものメンバーさん達が背中を押してくれたおかげで資格を取得することができた。
 仕事に就いて4年目に地域生活支援センター立ち上げのスタッフとして関わることとなり、5年目に今の職場に移った。6年目の時、急に東京都から「退院促進モデル事業」を引き受けて欲しいという打診がセンターに入った。その時は“事業所連絡会とかで先輩たちが言ってた社会的入院の解消ってやつのこと?”ぐらいの認識だった。それから今日まで様々な機関の方々の力を借りて地域移行支援に携わってきたが、自分が関わって退院することができたのは今も全国に約17万人いると言われている長期入院者の内のわずか200名弱程度の方たちでしかない。しかも、内数名は死亡退院である。

2.地域移行支援の中で

 自分が出会ったとき、AさんはB病院に6年ほど入院していた。“もうわたしは退院できないので放っておいて欲しい”と言い続けていたそうだが、病棟チームが年単位で声をかけ続け、東京都の精神障害者地域移行促進事業を利用して自分に繋げてくれた方だった。「わたしが退院できる確率は5分5分だから放っておいてくれていいのよ」という口癖のAさんに声をかけ始めた。入院前に暮らしていた街に外出支援を繰り返し、その度に暮らしていた頃の思い出話を聴く中で、「入院前に随分周りに迷惑かけてしまったみたいだからもうわたしは退院しちゃいけないのよ。」と教えてくれた。
 その後、「そうね、病院は暮らす場所じゃないわよね…でもね、それでもわたしが退院できる確率は5分5分なのよ?」と言ってくれたAさんと「5分5分って50%もあるじゃないですか!その確率を60%、70%に上げるのはこっちの仕事だから十分です!」といった自分とのやり取りを経て、病棟と協働して入院前に暮らしていた街で数回体験外泊を実施した。Aさんは「それでも5分5分よ」だったが、いつしか「このままだと本当に退院できちゃうわね」といった言葉や笑顔も沢山見られるようになり、支援は順調そのものに進んでいると思い込んでいた。
 ある日Aさんが腹痛を訴えて、近くのC外科病院に検査入院で転院した。検査結果は、末期がんだという連絡が入った。C外科病院へ行くと自分の顔をみてAさんは、うっすら微笑みながら「わたしね、末期がんらしいの。あとイレウスもね。」「まさかこんな形でB病院を退院することになるとはねぇ。B病院のみんなは元気?」「だからわたしなんかに関わらない方がいいって言ったじゃない。」「あなたは大丈夫?」と言葉が続いた。よくよく聴いたら、Aさんが退院できないことによって、自分が誰かから怒られたり評価が下がるのではないかとAさんは心配してくれていた。自分が聴いたAさんの最後の言葉は「退院できなくてごめんなさいね。」だった。
 どうしてAさんが謝らなければいけなかったのか、どうして自分は何も悪くないAさんを謝らせるような支援しかできなかったのか、どうしてもっと早く出会って退院していただくことができなかったのか、望んで病気になったわけでも障害になったわけでもないのに退院したいという希望すら遠慮して言えないような世の中なのか…というやるせない気持ちと自分自身の無力感とに打ちのめされた。今でも時々Aさんのことが頭を駆け巡る。

3.いま取り組んでいることと、私が考える「精神障害者の社会的復権」

 15年程前にとある精神保健福祉士の先輩から「自分は就労支援をしているので退院支援は関係ない」と言われたことがある。果たしてそうだろうか?
 今や精神保健福祉士の職域は多様に拡がっている。どれもが社会的復権や社会的入院の解消に繋がっていると自分は思っている。直接的な地域移行支援のみが社会的入院の解消に繋がっているわけではない。 “私は就労支援をすることで地域移行支援に関わっている”、“私は教育現場から社会的入院の解消に携わっている”といったような意識があれば、どの機関で業務を行っていてもその根本に大きな差異はなく、精神障害者の社会的復権に向けた取り組みだと考えている。 
 とはいえ、自分は「精神障害者の社会的復権」を狭義に絞って「社会的入院の解消」にこだわりたい。もう「退院できなくてごめんなさい」と言って逝く方を生み出さないこと、そのためにも人生の一部を分けて教えてくれたAさん達の思いを持ち続けて「社会的入院の解消」を自分の中心に据えて発信し続けること。その発信の中で多くの精神保健福祉士が直接的な地域移行支援だけでなく、普及啓発や間接的な支援でもそれぞれが行っている、行える活動があると意識を向けてもらえるようにすること。それが自分のこれからも取り組む社会的復権に向けた活動でありたい。


 

第4回 いま、できること

田村 綾子
(担当副会長/聖学院大学)

1.「精神障害者の社会的復権」以前のわたし

 私の最初の職場は神奈川県西部にある精神科病院だった。上司と、当事の理事長の大野和男さんから勧誘されて断れず、日本精神医学ソーシャル・ワーカー協会に入会したのは平成のはじめのこと。その後、全国大会に毎年参加するうちに研鑽の重要性を実感したし、「精神障害者の社会的復権と福祉のための・・・」というフレーズは何度も見聞きしていた気がする。けれど、協会の委員会活動や理事会に参加するようになるまでは、日々の実務でこれを意識することはなく、ただ「精神障害者の社会復帰」を使命感としていただけだ。しかし、PSWとして多くの入院患者さんの相談にのり、退院支援や金銭管理、ご家族との関係や主治医に話せない悩みなどを聞き、働きたいという人と院外作業先をいっしょに見学したり生活保護申請の同行等々を重ねるなかで、やるせない思いを日々抱かされた。
 精神病になったがために、なんでこんなに我慢しなきゃいけないのか、狭い空間だけで暮らさなきゃいけないのか、変な疑いをかけられたり不必要に力のない人と思われたり・・・。彼らが不当に差別的な扱いを受ける現状には「おかしい」と思うことがあまりに多かった。

2.わたしがPSWになった理由

 私自身は、いわゆる中流のサラリーマン家庭で両親に愛されて育ったと思う。妹たちとケンカしても仲は良かったし、家族で誕生会をしたり父の日・母の日に贈り物をする習慣もあった。それが「ごく普通の」生活だと思って、なんの疑問もなかった。
 なのに、ここ(精神科病院)ではそれらが「ない」。
 こういう世界に初めて身を置いたのは、大学3年の精神科病院での実習のときだ。退院できない患者さんが多数いることは既に習っていたが、こんなに元気にソフトボールもできる、カラオケできれいな声で歌える、笑顔でおしゃべりできる人たちが、なんで?という疑問は、やがて憤りに変わっていった。
 バブル絶頂期の超売り手市場のなか、就職先に精神科病院を迷わず選んだのは、一握りの使命感、加えて入院患者さんたちとの気どりや世間体の要らない対話に居心地よさを感じたからだ。この対話を病院の外でできたら、もっと楽しくて気持ちいいだろうと思った。

3.社会的復権を阻むもの

 社会に再び帰ることと、社会的な権利を取り戻すことは、似て非なるものだろう。
 「復権」とは、人が生まれながらに有する、人としてのかけがえのなさを大切にする思想の具現化だと思う。この幅は、その社会の成熟度や豊かさや寛容さに応じ、また、社会にいる人びと一人ひとりの暮らしの豊かさ、満足度、知性やふところの深さに応じて振幅する。無知が他者を排除することもある。それで古い体験を思い出したので記したい。
 障害者自立支援法が施行されて間もないころ、地元市町の障害程度区分認定審査会で、精神障害のある10代の女子(依存症)の審査中に座長である医師が言った。
 「これからは、こういう(依存症のような、本人の行いのせいで障害者になった)人まで支援しなきゃいけないのかねぇ。」
 彼女の生育歴のなかでどれほどの苦労があったのか、数年にわたる入院で失ったものの大きさはいかばかりか、審査を経て障害者として介護給付を受けようとするまでにどれだけの支援者がかかわり支えてきたか、もちろんそれらは審査会では詳細にわからない。
 ―もしかしたらとんでもない不良娘で非行の果ての依存症かもしれないけれど、そんなことは関係ないの。疾病や障害の理由をいちいち問い、自己責任なら支援を給付しない、なんてことをしていたら、長年喫煙して肺がんになった人だって保険診療は受けられなくなるじゃん。わかってんのかね、そういうこと―とは言い返さず、ただ、こう言った。
 「どの障害も、その理由は問われませんよね。それに、精神科病院には今日審査した身体・知的障害の方より、明らかに程度の軽い障害者が多数います。この方たちがやっと他障害並みにサービス給付の対象となって社会に戻ってこられるかもしれません。ありがたいです。」

4.知らないことの罪、知らしめることの意味

 いま大学1年生に、精神障害者がいわれのない偏見や差別的な処遇の歴史を背負って生きていることをあれこれ工夫して教育している。多くの学生は「そんなのおかしい」「もっと社会復帰させるべき」「諸外国並みに地域生活支援体制を作ってほしい」と感想を述べる。
 一方で、相模原事件の後も京アニ事件の後も、報道やネット情報に影響されてか「精神障害者を簡単に退院させないでほしい」という反応が多くなる。
このギャップを埋めなくてはならない。
 今年1月、相模原障害者施設殺傷事件の被疑者の公判が始まった。事件の再発防止に向けた検討会での3年前の議論とまとめ、措置入院ガイドラインの作成に至る一連の経過は、異様に速やかに精神疾患の発生予防と発症者の早期発見や再発防止の施策に集約された。精神障害が理由の犯行だったのか、事件の再発防止策の内容は裁判で明らかにされる事実とマッチするのか。裁判の確定後に改めて検討会は設置されるのか。動向を見続けたい。偏った情報操作の陰で尊厳を奪われる人があってはならない。「知らない」ことがときに大きな罪を誘発する。
 私が教えている学生の大多数は精神保健福祉士にはならず、精神保健福祉分野で働くこともないだろう。であればなおさら、非専門職の一般市民にこそ、精神障害者に対する差別や偏見の歴史と精神科病院の実態、そして、そこに留め置かれている一人ひとりの「声」や「姿」を伝えなくてはと思う。教員としての私が、いま、日々できる社会的復権に向けた取り組みはこれだと信じている。


 

第3回 「社会的復権」を考える 〜私が想う精神保健福祉士の社会的使命とは〜

徳山 勝
(地域生活支援推進委員会 委員長/半田市社会福祉協議会 半田市障がい者相談支援センター)

1.社会的復権の現状

 本協会の掲げている精神障害者の社会的復権は未だ成し遂げられていません。周りを見渡せば、多くの「社会的入院」や「賃貸住宅の貸し渋り」「世の中の根強い偏見」「機会の不平等」「良質な精神科医療の不足」などが目につきます。このことを解決するために掲げた目標が「精神障害者の社会的復権」であると私は理解しています。ある尊敬する大先輩が「(このような)状況を変えることが、精神保健福祉士の使命であると信じて活動してきた。それができない精神保健福祉専門職は専門職とは認めがたい」と仰ってました。私はその通りだと思います。

2.精神障害者の言葉からの気づき

 一方で、社会的復権の主役である精神障害者(以下、当事者)は、社会的復権についてどう考えているでしょうか。先日ある当事者Aさんからこんなことを聞きました。「私たちって社会的復権をされる立場なんですね」。私はその事を聞いて大きなショックを受けました。ここ最近、精神保健福祉士の仲間たちと「精神障害者の社会的復権」について話し合う機会は増えたのですが、私自身が当事者の方々とそのことについて話し合う機会が無くなっていたことに気づいたのです。

 今から11年前に精神科病院から委託相談支援事業所(現在は基幹相談支援事業所)に転職した私のところに、当事者Bさんが訪ねてきてこう言いました。「せっかくこの病気(統合失調症)になったんだから、その経験を活かしたい」私はその言葉を聞いて精神保健福祉士としての強い使命感に駆られました。そして「当事者が経験を活かしてチャレンジできる場所や機会」を作るための当事者グループをその方達と一緒に作りました。数人の当事者が定期的に集まってそれぞれの経験を話したり、悩みを相談したりしてリカバリーを助け合いました。入院した仲間に会いにいって「地域で待っている」事を伝えに行って退院意欲を高めたり、市外にもネットワークが広がっていき順調でした。しかし何でもそうですが良いことばかりではありません。メンタルの調子を崩す人、人間関係で悩む人、不満が募る人、バーンアウトしてしまう人、そのような状況を見てこの当事者活動に批判的意見を言う方達もいました。今振り返って考えてみると、そういった好ましくない状況を変えようとして、当事者の活動を活性化させるのではなく、批判的な関係者への対応に意識が向いていたと思います。数年が経った今、立場や環境の変化もあり社会的復権について考える時に、支援者や環境へのアプローチに意識が傾きすぎていた事を当事者Aさんの話を聞いて気づかされました。

3.なんのために?誰のために?何に向かって取り組むか

 社会的復権は何のために行うのでしょうか?誰のために行うのでしょうか?このことについて当事者は何を思っているのでしょうか?精神障害者の社会的復権のためには、当事者と協働しながら、環境へのアプローチと当事者が力をつける(エンパワメント)両輪の取り組みが必要だと思います。今回の社会的復権を語ろう運動では当事者とも話して頂けると良いと思います。本協会の活動にも当事者が主体的に関わる取り組みが必要性ではないでしょうか。

 今回、本協会の目的である「精神障害者の社会的復権」をどのように進めていくかを考える良い機会を頂いたと思っています。冒頭にもありますが、37年前に目標に掲げた当初の環境とは随分と違ってきました。法律の改正や国民の意識変化もあります。私は、そういった中で我々精神保健福祉士が日々実践しているソーシャルワークが、当事者に対してどのように影響しているのか?精神障害者の社会的復権に向けて進めているのか?当事者の方々が自ら権利擁護や自己実現できる力を増やせているか?を常に意識していきたいと思います。

 精神障害者の社会的復権に向けて、私は自分が生きているうちに精神保健福祉士として社会的入院の解消を目指します。そのために今私が取り組むことは福祉から地域を変える事です。いろんな所(小学校区から全国区まで)に精神保健福祉士として出しゃばっていきたいと思っています。

 最後に、社会福祉協議会の基幹相談支援センターで精神保健福祉士の主任相談支援専門員として地域福祉にどっぷり浸かって思うことは、精神障害者の権利擁護を本気で考えている専門職の大半は精神保健福祉士ということです。精神保健福祉士の皆さんは日々の実践で今何を目指しますか?


 

第2回 「社会的復権」を考える〜精神科病院での実践を通して〜

山本 めぐみ
(精神医療・権利擁護委員会 副委員長/浅香山病院 医療福祉相談室)

1.社会的復権とは何か

 精神保健福祉士の第1回国家試験が行われた1999年、私はソーシャルワーカーとして病院に就職した。就職後まもなく日本精神保健福祉士協会の倫理綱領を精読し、「精神障害者の社会的復権とは何か?私にできることは何か?」と考えはじめた。
 初めて担当した閉鎖病棟には、何十年も入院している患者さんがあふれており、とても彼らの権利が守られているとは思えなかった。「退院して地域で暮らすこと」が社会的復権だと考え退院支援に取り組み、一人の男性が10年以上の入院を経て退院することができた。精神障害者の社会的復権に少しは寄与できたのではないか、と私は喜んだ。しかし、ある日彼に「通院先を変わりたいけど、先生にダメだと言われた。」と悲しそうに相談された時、通院先さえ自由に選べない状況に置かれていることに気づき、愕然とした。退院できても権利侵害はあらゆるところで起きていた。本人でさえも気づかないうちに。人が人として当たり前に持っているはずの権利が、精神障害があるというだけで簡単に剥奪されてしまう現状を認識し、彼らが本来持つ権利を行使することができて初めて「社会的復権」なのだ、と理解するに至った。

2.社会的復権への実践

 その後も退院支援の取り組みを続けながら、いかに退院後の生活を自分らしく過ごせるかを本人と共に考えてきた。
 ある女性は恋をしたが、周囲は、お金目当てではないか?と交際を猛反対した。彼女は「それでも一緒にいられたら嬉しいの。」と、とても満足げな表情で話した。その顔は「患者さん」ではなく「恋する女性」そのものだった。私は彼女の恋を応援しながら、生活が破綻しないよう見守った。恋をすることも、大切な本人の権利のひとつである。
 また、ある女性は、高速バスで3時間かかる郷里に帰り、娘と再会することを望んでいた。反対する家族や主治医と何度も話合いを重ね、実現することができた。数年ぶりに娘と再会した彼女は、「娘にお小遣いをあげた」と誇らしげに語ってくれた。その顔は「母の顔」であった。
私は、居場所がなく自宅にこもりがちだったある男性と何度か一緒に喫茶店に行った。彼は人付き合いが苦手だった。ある時彼が「勇気を出して1人で店に行ったら、マスターと漫画の話で盛り上がった。」と嬉しそうに話してくれた。彼は「地域住民」であり「常連客」となった。
 社会の中で「患者」としてだけ生きるのではなく、さまざまな顔を見せてくれる彼女たちに私は救われてきた。その一方で、精神科病院で「患者」として一生を終える人も多くいるのが現状である。私一人だけが参列する葬儀を経験するたびに自責の念にかられる。そして、長期入院は人と人との繋がりを失わせてしまう悲しいものであり、長期入院の解消は精神保健福祉士の責務であると痛感する。

3.社会を変える視点

 現在は急性期病棟を担当している。そこには生活に疲れ果て、自ら精神科病院での長期入院を希望する人すらもいる。それほどこの社会には精神障害を抱えながら生きる人にとって過酷な現状がある。通院しながら働くしんどさを理解してもらえず退職し絶望した人、友達とのコミュニケーションが上手く取れず居場所を失った人、家族関係が破綻し孤独に陥った人、生活が苦しくなり生活保護の相談に行ったが断られ、死をも考えた人…。
 私は、彼らが再び社会の中に居場所をみつけ、生きる力を取り戻せるよう意識して今も関わり続けている。そして、彼らが再び生きていきたいと思えるような社会に変えることが「ニューロングステイ(新たな長期入院者)」を生み出すことを防ぎ、精神障害者の社会的復権へとつながるのではないかと考える。
 私たち精神保健福祉士は、彼らが抱える暮らしにくさの根底にどんな問題が潜んでいるのかを考え、「これって、おかしくないですか?」と同僚らと疑問を投げかけ合わなければならない。そうすることで、同じ疑問を抱えている精神保健福祉士等の仲間の存在を知り、 「私のクライエント」が抱える苦しみや困難が、この社会を生きる多くの人に共通する生き辛さであり、社会の課題であると気付くことができる。そして、どこにどう申し入れようか?と具体的な行動に移す手立ても見つかる。日々の実践は単なる「私のソーシャルワーク」ではなく、社会の課題の集積であり、社会を変える第一歩なのだと自覚し、「私たちのソーシャルワーク」としての行動を起こすことで精神障害者の社会的復権を目指したい。


 

第1回 社会的復権について〜私の実践

吉澤 浩一
(地域生活支援推進委員会副委員長/相談支援センターくらふと)

1.PSWとしての礎

 私は、大学在学中に精神保健福祉士(以下PSW)が国家資格化され、卒業と同時に資格を得た。札幌市内の精神科病院と併設の精神障害者地域生活支援センター職員として社会人1年目をスタートした。

 在学中は、実習や諸先生から受けた影響もあり、卒論としてソーシャルワーカーがセルフヘルプグループの社会資源化にどのように関与できるか等を軸に調査研究に取り組み、病院を含む地域の様々な活動にアクセスした。その中で、多くのPSWが、当事者が地域生活の実現や社会参加等の権利を行使できるようにと実践していることを体験的に学んだ。福祉労働者として二重拘束性があるとされる病院PSWも然りであり、とても輝いて見えた。さすがに真似できないと思ったが当事者がより社会の一員として生活が送れるようにと地域づくりを促すためその地域の住民になるPSWもいた。

 社会人なりたての頃に「精神障害者の社会的復権」をどれほど意識していたかはあまり覚えていないが、この権利支援を実践していた先輩方のPSWとしての在り様が自分の実践の根底にある。

2.「精神障害者の社会的復権」の実践

 新人の頃はおそらく思いが先行していた。利用者に積極的に向き合い、地域の方にも協働イベントを企画する等積極的にかかわり理想のソーシャルワークを目指そうとしていたかもしれないが、一方で病院への働きかけや、自分の価値基準と異なる職員等との連携はなおざりであった。数年経ち、退院促進のモデル事業が始まり「入院医療中心から地域生活中心へ」と政策理念が掲げられるなかで、改めて精神保健福祉士の目的に立ち返り今までのなおざりな実践を直視し、恩師・先輩から教えを乞い、同期・後輩と毎週のように理想のPSW像を求め学び直そうとした記憶がある。

 PSWの意義を再確認するなか、地域との連携、教育や就労の領域も今でいう地域移行支援と関連付けて捉えるようになったが、なかなかうまくいかないことが多く「本人には地域生活・社会生活の体験、家族や支援者には地域生活へ向かう手掛かりとなるアセスメント情報を得る機会がもっとあれば」と「お泊り機能付き相談支援」の構想を持ったのはこの頃だった。

 2009年に私事にて東京へ身を移すことになり、当時おおよそ7400床だった札幌市と違い病床ゼロという江戸川区の状況に戸惑いを覚えたが、「病床が無いなら尚更必要」と区単独のショートステイ事業を担当し「お泊り機能付き相談支援」を実践し始めた。当然マネジメントには各支援関係者、地域住民、病院、行政との連携が必要であり、各関係者をまわり、地域にネットワークを持つ方の協力を得、受入れから地域生活までの支援過程を整理し病院には啓発をした。江戸川区行政は当時「相談支援は行政の仕事」という捉え方であったが、民間事業所が行う意味もあると働きかけを続け、一方で相談支援事業所を設立し区内の相談支援事業所と連絡会を立ち上げソーシャルアクションを進める基盤を整えた。また有志と新たに小回りの利く相談支援事業所を別に立ち上げ、数年後に地域移行支援の専従職員を配置し、東京に移り10年程経った今、毎月15件以上の地域移行支援を実践している。

3.私が考える「精神障害者の社会的復権」

 協会の目的として「精神障害者の社会的復権」が掲げられ40年近く経ち、この言葉の意味を問い直す目的で調査や啓発活動が進められているが、精神保健福祉士法に精神保健福祉士の業として地域移行支援が位置付けられているように、社会的入院・長期入院の解消と予防は精神保健福祉士にとって軸ではないかと思う。精神保健福祉士がどのような立ち位置にあってもソーシャルワーカーとして本来の役割を果たしながら―かかわる当事者とその方を取り巻く環境、地域社会へ働きかけながらそれを推し進めることが「精神障害者の社会的復権」へ向けた実践だと考える。その実践を積み上げていきたい。



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