2021年度の全国大会・学術集会は札幌で開催されます。「札幌」ときいて「宣言」を思い浮かべる方が本協会には少なくないことでしょう。
あれ、そんなことないですか?
「何の宣言か知らない」というあなた、本当に構成員ですか。・・・なんてカタいことは言いません。けれど、これから約1か月ごとに更新されるこのページを読んで考えるきっかけにしていただければと思います。
札幌宣言とは、精神医学ソーシャルワーカーが関与したY問題というできごとをきっかけに、私たちの先輩(現役の方もいらっしゃいますが、年配者が多くなりました・・・)が自分たちのありようを見直し、協会の存在する意味を追究した結果「精神障害者の社会的復権」を協会の目的として1982年に表明したものの通称です。
それから40年近くを経た2021年に札幌で全国大会が開かれることを契機に、地域生活支援推進委員会と精神医療・権利擁護委員会による権利擁護部合同プロジェクトを立ち上げ、「精神障害者の社会的復権」について現代の課題を改めて考えてみようと思います。既に愛知大会や2019年9月のブロック会議でのアンケート調査をはじめ、各都道府県支部でもこのことについて考える機会の提供が始まっています。
「精神医学ソーシャルワーカー」はもう古い、これからは「メンタルヘルスのソーシャルワーカー」だという考えは私たちの間にずいぶん浸透してきたように思われます。けれど、精神障害のある人の福祉、その手前の「社会的復権」は既に成し得たといってよいのでしょうか。この言葉のとらえ方は様々で、あまり意識したことがない、意識はしているけど実践していない、言葉として聞いたことがない、など、自分には関係ないと思っている方もいらっしゃるかもしれません。しかし、身近に取り組めることはないでしょうか。WEB連載を通してご一緒に現代の社会的復権の課題について考えられればと思っています。
合同プロジェクトは、下記のメンバーで話し合いを進め、2021年の北海道大会で取組結果の報告を予定しています。連載をご一読いただきますようお願いいたします。
公益社団法人日本精神保健福祉士協会 会長 田村 綾子
No | タイトル | 執筆者(敬称略) | 掲載日 | |||
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15 | 第15回 「社会的復権を語ろう運動」〜各地の取り組みのご紹介〜 (その3)日本精神保健福祉士協会東京都支部・東京精神保健福祉士協会 NEW! |
吉澤 浩一(進行) | 地域生活支援推進委員会 副委員長 相談支援センターくらふと |
2020年12月28日 | ||
金川 洋輔(記録) | 地域生活支援推進委員会 副委員長 地域生活支援センター サポートセンターきぬた |
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14 | 第14回 「社会的復権」の真なる意味を希求して |
鶴 幸一郎 | 社会福祉法人 フォレスト倶楽部(大阪府) | 2020年10月29日 | ||
岩尾 貴 | 朋友会 くらし・しごと応援センターはるかぜ | |||||
13 | 第13回 隠れファンからの電話 |
木太 直人 | 常務理事 | 2020年9月28日 | ||
12 | 第12回 「社会的復権を語ろう運動」〜各地の取り組みのご紹介〜 (その2)北海道精神保健福祉士協会 |
細田 美保 | 耕仁会 札幌太田病院 | 2020年8月26日 | ||
高谷 澄恵 | 朋友会 石金病院 北海道精神障害者スポーツサポーターズクラブ 事務局・ヨガ部部長 |
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11 | 第11回 インタビュー「大野和男さんが語る社会的復権」 |
有野 哲章(聞き手) | 権利擁護部 部長/蒼溪会 | 2020年8月5日 | ||
田村 綾子(聞き手) | 会長/聖学院大学 | |||||
10 | 第10回 インタビュー「門屋充郎さんが語る社会的復権」 |
有野 哲章(聞き手) | 権利擁護部 部長 蒼溪会 |
2020年7月16日 | ||
9 | 第9回 「社会的復権を語ろう運動」〜各地の取り組みのご紹介〜 (その1)荒尾こころの郷病院 |
平山 徹 | 荒尾こころの郷病院(熊本県) | 2020年6月19日 | ||
8 | 第8回 「社会的復権」は、精神保健福祉士の「北極星」 |
有野 哲章 | 地域生活支援推進委員会 担当部長 蒼溪会 |
2020年5月27日 | ||
7 | 第7回 社会的復権と私の実践 |
岩尾 貴 | 精神医療・権利擁護委員会 委員長 くらし・しごと応援センターはるかぜ |
2020年4月28日 | ||
6 | 第6回 私にとっての社会的復権とは 〜「ごく当たり前の生活」の実現を目指して〜 |
尾形 多佳士 | 精神医療・権利擁護委員会 担当部長 さっぽろ香雪病院 |
2020年3月23日 | ||
5 | 第5回 「社会的入院の解消」から社会的復権を考える |
金川 洋輔 | 地域生活支援推進委員会 副委員長 地域生活支援センター サポートセンターきぬた |
2020年2月25日 | ||
4 | 第4回 いま、できること |
田村 綾子 | 担当副会長 聖学院大学 |
2020年1月20日 | ||
3 | 第3回 「社会的復権」を考える〜私が想う精神保健福祉士の社会的使命とは〜 |
徳山 勝 | 地域生活支援推進委員会 委員長 半田市社会福祉協議会 半田市障がい者相談支援センター |
2019年12月20日 | ||
2 | 第2回 「社会的復権」を考える〜精神科病院での実践を通して〜 |
山本 めぐみ | 精神医療・権利擁護委員会 副委員長 浅香山病院 |
2019年11月29日 | ||
1 | 第1回 社会的復権について〜私の実践 |
吉澤 浩一 | 地域生活支援推進委員会 副委員長 相談支援センターくらふと |
2019年11月8日 | ||
* | 日本精神医学ソーシャル・ワーカー協会宣言(第18回札幌大会)―当面の基本方針について―(1982(昭和57)年6月26日) |
※執筆者所属は、掲載日当時のもの
東京都支部は、代議員が7人と他支部より多い。この7人は、理事を兼ねる方、兼ねない方、代議員として二期以上の方もいれば今期が初という方もいる。病院所属の方もいれば地域援助機関所属の方もおり、全国の縮図とまでは言わないが、様々異なる特色を持った方たちの集まりである。毎年東京都支部と東京精神保健福祉士協会の総会は同日に行われる。ここ数年は総会終了後にグループワークが行われ、各グループに代議員が入り、参加した構成員と様々なテーマで意見交換を行ってきた。今年度はこの社会的復権について語り合うグループができることも想定されたが、コロナ禍により意見交換は実施できなかった。このような状況下において、代議員が社会的復権に対しどのような役割を果たせると考えるか等を「語る」機会をオンラインで2時間強ほど持った。以下、その概要をUPする。 |
まずは自己紹介
吉澤浩一(以下、「吉澤」):
MHSW歴19年。江戸川区にある、相談支援センターくらふとで区相談支援に従事。地域移行支援に力を入れている。代議員二期目。
毛塚和英(以下、「毛塚」):
MHSW歴17年。国分寺市にある地域生活支援センタープラッツ勤務。東京都地域移行促進事業の地域移行コーディネーターもしている。個人では成年後見人を4人している。代議員二期目。
飯島光彦(以下、「飯島」):
MHSW歴14年。東村山市の三恵病院で勤務。代議員は初。都支部の理事も兼任している。
坂入竜治(以下、「坂入」):
MHSW歴21年。武蔵野大学勤務。元々精神科病院のソーシャルワーカーで病棟、デイケア、訪問看護、援護寮等を経験。代議員は初。都支部の理事兼任。日本協会の「精神保健福祉士業務指針」委員会にも所属。
宮井篤(以下、「宮井」):
MHSW歴18年。板橋区にある、こころのクリニックなります勤務。慢性期病棟での経験が自分の原点。代議員は初。都支部の理事兼任。
斎藤健(以下、「斎藤」):
MHSW歴25年。練馬区にある、大泉病院勤務。同法人内の病棟、デイケア、援護寮、グループホームと渡り、今は病院の相談科に戻り主に外来業務。代議員は初。
横手美幸(以下、「横手」):
MHSW歴23年。北区にある、障害者地域活動支援室支援センターきらきら勤務。代議員は初。
―経験があってもなくても、所属がどこでも、代議員であっても、「社会的復権」を常に意識をしているかと問われればはっきりと自信を持ってYESと言い切るのにどこか躊躇があること、しかし「社会的復権」に対する考えには誰しも一本筋が通っていることがわかりました。
また「社会的復権」に対する捉え方にはさほど差が無く、何が本質か、どのような実践が最適解なのかなど、悩み、揺らぎながら向きあっている状況もみてとれました。
さて、では、この皆さんは、「社会的復権」を果たすために代議員としてどのような在り方が必要と考えているでしょうか。続きは次回にUPします。
前期社会保障問題検討委員会委員長の鶴幸一郎さんから権利擁護部合同プロジェクトのコラムを読んで、「ここではそれぞれが考える社会的復権を語っているが、社会的復権とは何かを定義づけしていく必要があるのではないか」というご意見を頂きました。委員からは、このコラムは社会的復権が何かという答えを出すことではなく、構成員同士の語りを促すための材料であり、構成員一人ひとりが今の社会的復権の課題を考えること、その活動を踏まえて2021年の北海道大会で「語ろう運動」の取組を報告することを目指していることをお伝えし、鶴さんにも意見をぜひコラムとして掲載したいとお願いしたところ快く引き受けてくださいました。 岩尾 貴 |
社会福祉法人 フォレスト倶楽部(大阪府) 鶴 幸一郎
1997年、精神保健福祉士の国家資格が創設されたと同時に現場に出た。よって、私は無資格で現場に出た最後の世代である。就職したのは、交通事故の原因の1位が、鹿や猪との接触事故という、A県の郊外にある精神科病院であった。職場にはPSWの上司も先輩もおらず、地域には作業所の一つもない、まさに孤立無援の状況であり、行く末に暗澹たる気持ちになっていたことを今でも鮮明に覚えている。そんな中、私の実践を支えたのは三つの言葉である。
柏木昭先生の「かかわり」・尾崎新先生の「ゆらぎ」そして谷中輝雄先生の「ごく当たり前の生活」である。そして、その言葉を核とした実践の目指すものが「社会的復権」であった。
当時の私を含めたPSWが目指したものは、協会の目的でもある「社会的入院の解消」と「回転ドア現象の阻止」だった。その実現のため医師や看護師・家族・保健所を説得することや家のない方、経済基盤が乏しい方のために不動産屋や役場と交渉し、時には自分自身が賃貸契約の保証人になり、病院を説得して家主からの夜間休日連絡に対応する体制を了解してもらうなど、なんとか地域で暮らしてもらうことに心血を注いでいた。また、PSWによる訪問支援体制も構築し、在宅での服薬の助言・暮らしの相談支援、時にはうつ症状で動けなくなり、大便が体にこびり付いた方の介護もしていた。
しかし、私自身がいくら援助をしようとも、常に限界の壁にぶち当たる。不動産屋を説得して紹介してもらう物件は、ベクトルを自分に向けた際「ここに自分が住めと言われても住む気にならない」と思ってしまうものばかり。公共交通機関が整備されておらず、通院費用がかさむ地域なのに生活保護費は、隣の1級地の自治体と比べて少ない。そもそも1ヶ月の生活費が6〜8万円でどうやって健康で文化的な生活ができるのか。また、退院するに当たって、一般家庭に普及している家具家電類を購入することもままならない。私たちは退院してもらうことに精一杯で、退院後の生活についてどうあるべきかまで考えが及んでいないのではないか。そして、既存の制度の中でどう生活を維持するかばかりをクライエントに押し付けてしまっているのではないかと。
そして社会的復権とは、何の権利をどのような状態に回復することなのかと問う日々が続いてきた。
「社会的復権」に関して、この言葉の生みの親のお一人である前協会監事の西澤利朗さんと意見交換をさせていただいた。この言葉には当時Y問題で機能停止していた協会活動の再出発を意味する想いが込められていたとご意見を伺った。察するに、権利擁護を実践するPSW自身が犯した権利侵害へのアンチテーゼとしての意味が込められていたのだと。
そして、この「社会的復権」という抽象的な表現を具体的なものとしていく際、メンタルヘルスケア改善のための諸原則や障害者権利条約、協会倫理綱領との突き合わせ作業が重要であり、またそうした作業を経て生み出されたものが、当事者や家族と享受されたものでならないと。このご指摘は非常に重要なものであると考える。
「社会的復権」の実現に向けた個々の精神保健福祉士の実践は、多様であり地域特性に鑑みたものとなることは言うまでもない。ただ、私たちが専門的理論や知識に寄って立つ専門職であるならば、私たちの実践の核となる「社会的復権」の意味を問われた際、一定の統一された返答ができなければ、私は専門職とは言えないと考える。そういう意味において、実践者と研究者が、この社会的復権に関する具体的な解釈や定義を定める際、より一層近接し、教育・現場での共通言語となり得るものとする不断の努力が必要であると考える。
では、何の権利をどのような状態に回復することが「社会的復権」なのかについて、1つの私案を先人の方々の知恵も拝借して提起したい。
1970年、当協会の前身である日本精神医学ソーシャル・ワーカー協会においてPSW業務基準原案が示された。
そこにはこう記されている。
「患者は、自らの生活要求を実現する権利、すなわち生活権をもっている。PSWはその患者がこの権利を守ることを助けるために、患者の生活と治療の基盤となり、疎外するものとしての社会のしくみと、当事者の主体の問題、その両方の関わりを認識することを基本視点に日常実践を進める」
さらに「生活権」については、かつて生活権保障を提唱した一番ケ瀬康子氏が「生活要求に対して貨幣・現物・サービス機能の分配を即時的に実施あるいは促進する人権」と解説している。
私は、これらを元に「社会的復権」とは、「精神障害者が国の隔離収容政策によって奪われた生活権を回復すること」と定義し、その解説として「生活権」とは、「社会的入院の解消によって、精神障害者が地域で住まうことを保障する権利」と定め、その保障されるべき権利の諸規定を別途設けることを提案したい。
<諸規定案>
1.相対的貧困率を下回らない所得保障
2.最低居住面積水準を下回らない居住保障
3.一般家庭普及率90%を超える現物においては、その保持及び取得の保障
4.自由意志による社会参加への保障
これらは、あくまで私案ではあるが、「社会的復権」という言葉が、私たち精神保健福祉士の固有の言葉である重要性を認識した上で、その言葉が精神障害者やその家族とのかかわりの中から紡ぎだされ、その方々が生活を営む上で抱えている生きづらさや困難さを表し、それらを回復していく共通言語となっていくことを願ってやまない。そして、共通言語にしていくプロセスにおいて、当事者や家族との対話や協議がなされることも加えていただきたいとも願う。共通言語の形成は、支援者である精神保健福祉士が一方的に語ってなし得るものではないからである。
木太直人
(常務理事)
2020年6月某日、本協会の事務局に「構成員以外の方」からの電話があり、私が応対しました。
X県在住の70代の男性でQさんと名乗られました。Q さんは1970年代からボランティアとして活動をされていらっしゃるそうで、精神障害者の支援にずっと市民の立場で携わってきたとのことでした。
電話の主題は「医療機関の主治医の意向や判断で、退院後にデイケアや訪問看護を利用する人が最近増えているように思えてそのことが気になっている。知的障害者と違い精神障害者の場合は、主治医の判断や指示が優先されてしまうものなのか。かかわっている人の話を聞いていると地域のB型事業所や地域活動支援センターのほうが、その人に合っているように思うが、まわりの精神保健福祉士などの専門職も主治医が言ってることだからと。自分の考え方がずれているのか確かめたくて本協会に電話をしてみた」ということでした。
私からは、すべての医療機関や医療従事者に当てはまるわけではないことを前置きして、「医療の立場にいる人は患者さんの退院を考えるとき、どうしても『安心と安全』を優先して自機関のサービスに繋げようという発想になりがちかもしれません。でも、そのことは本人の安心というよりは関わる側の安心のためという側面が否定できないですね」といったことをお伝えしました。
Qさんは本協会や精神保健福祉士の活動に関心を持ってくださっており、欠かさず本協会のホームページをチェックされているそうです。その中でも最近はコラム連載「社会的復権について〜私の実践」をずっと楽しみにしており、新しいコラムが掲載されるたびに「そうだよなー、俺の考え方は間違っていないよなー」と呟かれているそうです。そして「隠れファンです」とも。
電話のやり取りがあったことを、このコラム連載を企画している権利擁護部合同プロジェクトに伝えたところ、「是非コラムで紹介してほしい。木太さんが考える社会的復権のことも交えて書いてほしい」と依頼されました。
うーむ、と唸っているときに、自分が昔書いた原稿を少し前に読み返したことを思い出しました。今から18年前、2002年8月の第12回世界精神医学会横浜大会の中で精神保健従事者団体懇談会(精従懇)の特別フォーラムが開催され、シンポジウム「これからの精神保健福祉」に当時の門屋会長、木村真理子さんとともに登壇した時の原稿(タイトル「精神保健福祉士の当面の課題」)です。精神保健福祉士法が制定されて5年目、国の退院促進支援事業が始まる前年、自分がやがて精神科病院を辞めることを想像だにしなかった頃のものです。青臭く、回りくどい文章ですが、発表の結びとして書いた一文を恥ずかしながら再掲して、あれから18年後の今が変わっているのかを皆さんと確かめたいと思います。
失敗する権利の保障私がここのところずっと考え続けていることは、ノーマライゼーションとは、たとえ精神障害があっても私たちがそうであるように、さまざまな失敗を通して成長することができる社会の実現、つまりは失敗する権利、リスクを負うことの尊厳を保障することなのだということである。 さらに言えば、精神障害者も市民としての権利を享受することができ、なおかつ応分の責任を担うことができることが、真の社会参加なのではないかとも考える。 私たちは、偶然の出会いがその人の人生を大きく変えていくという信念をもって、また、偶然が起こりえない環境は慣れてしまうと安心かもしれないが、果たしてそこに人生の意味や楽しさを見出すことができるのだろうかという問いかけをしながら、与えられた課題を解決していかなければならないと考えている。 |
改めて「精神障害者の社会的復権」を私なりに捉え返したいと思います。「社会的復権」をネットで検索すると、この言葉は本協会以外ではほとんど使用されておらず、協会固有の言葉であることがわかります。「復権」はリハビリテーションの原義であることは広く知られていますが、「社会的」と冠したところに先達の籠めた強い思いを感じることができます。
誰もが人としての権利を持っていることを前提として、精神障害があることをもってその権利を行使できない、あるいは行使しにくい状況に置かれていることが、1982年当時も今も変わらない大きな課題です。そうした社会状況を変革していくことにこそ、個々の精神保健福祉士の、そして組織としての日本精神保健福祉士協会の使命があるのだと思います。
障害者権利条約は第19条において、締約国は「障害者が、他の者との平等を基礎として、居住地を選択し、及びどこで誰と生活するかを選択する機会を有すること並びに特定の生活施設で生活する義務を負わないこと」を確保しなければならないと規定しています。
地域社会で生活する権利を行使できない社会は、もういい加減にやめなければなりません。
一般社団法人北海道精神保健福祉士協会では、2020年1月に道協会機関誌の掲載用企画として、2021年全国大会(第56回大会)運営委員を含む、年代や現場の異なる北海道協会の会員有志による座談会、併せて1999年に北海道で開催された全国大会(第35回大会)において事務局長を務められた佐野孝文氏(特定医療法人さっぽろ悠心の郷)へのインタビューを実施した。本企画は、「札幌宣言」からおよそ40年の時を経て、この北海道の地で再び全国大会が開催されるにあたり、Y問題や札幌宣言をどのように捉え、「社会的復権」をどう認識しているのか、そんなことを相互に語り合う場を用意したいとの思いから始まった。
座談会は、「日々の実践−多様性に“寄り添う”ことを振り返り、語り合い、育む−」というテーマで開催した。所属や経験年数の異なる7名が上述したテーマを熱く語り合った。続いて行われたインタビューは、「人権感覚を磨く−我々は誰のために働くのか−」というテーマで、長年北海道の地で精神障害者の地域生活支援に取り組んでおられる佐野氏に「ワーカーの目的とは」・「協働とは何か」・「寄り添うこと」などの本質を伺った。座談会へ参加しインタビューを傍聴した2人の精神保健福祉士からの感想を「語ろう運動」のwebコラムとして紹介する。(尾形)
【社会的復権について改めて考える−先達に学び、仲間と語らうことの重要性−】医療法人耕仁会 札幌太田病院 細田美保(PSW歴22年) 当初は、「精神障害者の社会的復権のために」などの大きな志があって精神保健福祉士になった訳ではなく、妙な巡り合わせで就職した先が精神科病院であっただけのことだった。Y問題、札幌宣言、社会的復権について意識することも少なく、先輩から当然のように勧められた精神保健福祉士協会に入り、その中で再確認することとなった。何も知らずに入った世界では、驚きの連続であった。地域で暮らすある人は、雨でもないのに洗面器を被って銭湯に行くし、どこからどう見ても日本人のその方は、自分の出自を「カナダ出身で高貴な家の出である」と語っていた。彼らが自分らしく生活している姿が素敵にみえた。 座談会の中でファシリテーターより、「Y問題、札幌宣言など、これまでの歴史から学ぶべきことを日々の実践の中で活かせているか」との投げかけがあった。改めて問いかけられると、自信をもって「歴史から学んだことを実践に活かしています!」と大手を振って答えることはできず、考え込んでしまった。就職して自分らしく生活している方々に会い、ただ目の前にいる方が自分らしく生活できることを意識し、仕事をしていた。しかし、歴史から学んだことを考え、社会的復権を意識して仕事をしていたかと問われると疑問符が付く。 佐野氏のインタビューの中で、「精神保健福祉士の資格を持ったワーカーは大勢いるが、多くは協会に入っていない現状がある。我々精神保健福祉士が目指すところと違う方向に行ってしまう人が結構いるのでは」との話があった。たしかに自分にあてはめて考えてみると、所属機関のみの人間関係では、何となく社会的復権については知っているという程度で、そのことにつてい深く考えず流されて仕事をし、そこに何の疑問も持たなかったかもしれない。また、座談会には、異なる年代、所属機関の方々が参加しており、それぞれの考え方や視点、悩み、葛藤があった。共通していたのは、その人らしく幸せな人生を送ることを一番に考え、支援者が一方的に支援を決めるのではなく、寄り添いながら仕事をしたいという気持ちであったように思う。私たちは、その人の人生の一部に関わる仕事をしており、正解のない問題にぶつかることも多い。だからこそ、迷い、悩む。同じ方向性を向く仲間との繋がりを大切にし、時に迷いや悩みを打ち明けながら、方向性を確認していく必要性があると感じた。 今回の座談会の参加とインタビューの聴講は、社会的復権について改めて考えるきっかけとなり、先達から学ぶこと、仲間と語らうことの重要性を感じた。今後も、仲間と語らい、研鑽し、社会的復権について考えながら、自分の進むべき方向を確認していきたい。 |
【語らいを通じて考える、社会的復権】特定医療法人朋友会 石金病院 この座談会を通じて感じたのは、勤務先や経験年数が違えども、「目の前にいるクライエントの訴えに耳を傾け、気持ちに寄り添おうとし、自分の価値観に日々自問自答しながらその人にとってのよりよい人生を望んでいる」という共通した想いだった。人の人生に関わっている重さを改めて感じた。中でも印象的だったのは「本人のため」の難しさである。本人の意思とは関係なく強制的な医療が法的に認められている現場で、本人のための支援のつもりでも、本当に本人のためなのか顧みて悩むことは、経験年数に関わらず抱える葛藤だった。Y問題の人権侵害が意図的ではないことも難しさの一端である。本人と話を重ねることは大前提として、精神保健・医療・福祉のフィールド内のことを当たり前とせず、社会の中でのごく当たり前の視点を持ち続けること、色々な人の色々な考えに触れ多様な価値観を吸収すること、そんなことを大事にしながら本人と伴走していく精神保健福祉士でありたいというのが、今回の語らいで私たちが考えたことであった。 私は、スポーツに取り組むことによって精神障害に対する偏ったイメージが見直され、一人ひとりが個人として尊重される社会がつくられていくことを願う人たちの集まりである『北海道精神障害者スポーツサポーターズクラブ』に参加し、当事者や非専門職の仲間と伴に活動している。当クラブでは、運動療法やレクリエーションとは異なり誰でも参加できる「普通の」スポーツ活動(現在はフットサル・バレー・バスケ・ヨガ・マラソン)を行っている。当初は、精神障害を抱えているというだけで「危ない」・「先生の許可を」等と専門職からスポーツをする機会さえ奪われたり、スポーツ施設で不必要に障害者扱いされたりすることもあった。当事者、専門職、非専門職が職種や肩書、属性に捉われないフラットな立場で社会での当たり前の中で活動を伴にすることで、「支援される/する」という枠を越えた仲間として主体的にクラブや競技について意見を出し合いながら喜怒哀楽を分かち合っている。 今では、スポーツ施設は他利用者と何ら変わりのない対応をして下さり、掲載される新聞記事も福祉欄からスポーツ欄へと移った。病気の知識がない非専門職の「普通の」対応に、専門職が気づかされることも多い。当事者だけでなく、取り巻く環境や私たち専門職も少しずつ当たり前を取り戻している。それにより、多くの当事者や家族が希望をも取り戻している。私たちが座談会で語らい描いた精神保健福祉士像は、「本人のため」を重視したものであった。その実践の積み重ねこそが、様々な人にとっての大切なものを取り戻す=社会的復権に繋がるのではないかと、精神保健福祉士の深みを改めて感じた座談会だった。 |
<インタビュイー>
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Y問題への取り組みにより、「社会的復権」を掲げて、私たちPSWは人権を守ることを示した。我が国の職能団体では初めてのことで、PSW協会だけであった。
提案委員会では4点課題を示したが、最終的な報告書をまとめるにあたって、それらを包括し今後のPSW実践の軸を表現する適切な言葉を考えていた。振り返ると「社会的復権」という表現は、横浜駅近くの喫茶店での大詰めの打ち合わせのなかで出てきた。この言葉に秘めた思いは、まず社会的状況に目を向ける視点があった。そしてPSWとして自己点検をする表現になったと思う。
当時の精神科医療の劣悪な環境、たとえば、30人規模の大部屋、コンクリートで固められた狭い部屋と、その片隅には用を足す小さな穴のあるつくりの保護室というのは珍しくはなかった。当時に比べれば、今はアメニティは良くなってはいるものの、好ましい療養環境という観点からは課題はたくさんある。
Y問題は、PSWと当時の精神衛生行政機関が本人との関わりのないまま、Yさんを病者と決め込んで強制入院を進めてしまったことであり、それを踏まえて「社会的復権」は、本人の意思を大切にすること、人権侵害への切り込みを考えていた。
当時は「社会的復権」を宣言した後、PSWの周辺からは「生意気だ」との声がよせられたり、宣言するより以前、Y問題の継承性の取り組みの中で、「Y問題のような出来事は特に珍しいことではない」とか、Y氏側からのPSW実践に対する批判の厳しさに「厳しい精神医療状況の中で、患者さんのために一生懸命実践しているのに心外だ」と反発するPSWも少なからずいたのである。
それらの声にはPSWの専門性の脆弱さや人間としての弱さがあったのだろうと思う。
提案委員会の4点課題は、専門職としての自らの実践を振り返る必要を求め、クライエントとの対等性についての意識の点検、二重構造として専門職が置かれている状況の認識、クライエントの立場に立っているかについて、考える必要があるとしたのである。今の福祉サービスもクライエント中心というよりは、サービス提供中心にすすめているように見えるが、これではいけない。限定的な福祉サービスに、クライエントを押しつけているのではないか、やはり自己点検が必要と感じる。社会的活動として、PSWの実践を意識していく必要がある。
精神科医療に対しても、改革がまだまだ必要だし、それはPSW協会単独ではできないことだから、他の団体との協働も必要であろう。
PSWの「実践の豊かさ」や「豊かな実践であること」について、PSWマインドをもっと伝えていって欲しい。PSWはクライエントの人生や生活に積極的に介入することが認められた専門職である。介入や関わりのあり方でクライエントは幸せにも不幸にもなっていく。教育の現場では福祉サービス利用のハウツー的な内容が増えてきている傾向がみられるが、ソーシャルワークの基本となるマインドをしっかりと伝えていって欲しい。
これは、永遠の課題だが、社会のルールのなかで障害者がどう位置づけられてきたか。これについて、柏木昭名誉会長は「障害者は2級市民と見做されている」と表現されたことがある。すなわち我々は人を価値のある存在と価値の低い存在に分けてきた歴史を背負っており、今もなお克服されないままであること、そして、そこにこそ大きな課題が内包されているのだが、そのことについてPSWが気づいていないとすれば極めて問題であるということだ。障害者との関わりで、常に実践のベースに「障害者が価値ある存在として活躍できる社会的活動や資源の開発」に努めるということになる。PSWは自らを「人権感覚に優れた専門職」として磨きあげる必要があるということである。
PSW協会だけでなく、ソーシャルワークの定義に「社会的復権」を位置づけていけば良いと思う。社会的復権に関わる今日的課題に意識が向かないでいる、また、権利侵害を目の当たりにして手をこまねいているのは、PSWとして怠慢だと感じる。
もっともっと現場実践の議論をして、今日的課題の再確認をして欲しい。社会的復権にかかる今日的課題が身近に存在していることに気づくと思う。一つずつのことに豊かな疑問を持って欲しい。その中身を深めてほしい。解決に向かって協働して欲しい。そしてその活動なり実践をとおして「専門職としての自己実現」をはかって欲しい。社会的復権の理念は自ずとPSW個々に浸透するのではないかと思う。これのことがPSWにとって大きな財産となる。
PSWの仕事は「豊かな実践をすること」にある。医師や看護師のそれと比べると、その人の生活全般に関わることができるという意味で実践範囲の広い専門職である。PSWはクライエントの生活の痛みに触れる。その時こちらも同じ生活者としての痛みを感じる。クライエントの苦しみに触れたら、こちらも苦しみを共有することになる。私が運営に関わっているグループホームのスタッフから、かかわりの難しさや苦しさについての相談がある。そのことについて私は「それは良かったね」と肯定的に応えている。クライエントの苦しさから学ぶ姿勢が大事だからだ。
PSWの法定資格化に向けては、協会の基本指針「精神障害者の社会的復権に向けた専門的・社会的活動」が損なわれないことを重要な要件の一つに据えて取り組んだ。そして、社会的復権を担う中心的なマンパワーとしてのPSWが認知された。なぜこのような資格が実現可能となったか、改めてしっかりと確認して欲しい。そして、改めて多職種との関係、特に主治医との関係が、「指示」ではなく「指導を受ける」とした規定の意味を正しく理解し主体的な実践のできるPSWとなって欲しい。私はよく「主治医の見解を積極的に求め、正しく理解する」ことにあわせて「主治医の話を鵜呑みにしない」ことをスタッフに伝えている。
承知の通り「ケネディ教書」により、米国では大規模精神病院の解体と脱施設化が急速に進められた歴史がある。ケネディ大統領の身内に精神病者がいて、精神医療の実情が評価されたことは、有名な話である。治せないまま病院に入院させておくのは意味がないと考えられた。治せないまま大規模な施設に入院を継続し医療費を取っている無責任な精神病院や精神医療制度のあり方への痛烈な反省である。しかし、それまで許されたのは、精神障害者が価値の低い人間として扱われてきたことが根底にあったからに他ならないと考える。
我が国においてはどうであろう。私は精神障害者の社会的復権にかかる課題は山積しており、これからも、制度の大きな変貌と、精神保健・医療・福祉の実態が大きな変貌を遂げない限りいつまでも課題は続くと考えている。これが私なりの社会的復権にかかる結論です。PSWの皆さんには、このような意識を持ちながら日々の実践を豊かにして欲しいと願っている。
クライエントの持つ悩みや苦しさを、ともに悩み苦しむことを大事なこととして肯定的に評価し、豊かに自分の中に取り入れてゆくPSWであってほしい。
<インタビュイー>
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有野:今回の社会的復権運動は、門屋さんからの投げかけで始まりました。門屋さんは社会的復権についてどのように考えているのでしょうか。
門屋:社会的復権という言葉を私が出したかのように言われているがそうではない。自分たちが職業としてやっている事に、実は社会的に権利を侵害している部分がある。自分がそうしていなくても、法律や社会の仕組みが権利を侵害する仕組みになっている認識から始まる必要性がこの領域にはある。だから、そのことにいつもセンサーをもって感じていて欲しい。それはずっと課題であり、今も課題と感じている。
有野:具体的に言うとどういうことでしょうか。
門屋:精神科医療では日常的に権利侵害が起きていることは、PSWは感じていた、気が付いていたと言える。それがY問題という事件だった。我々が考えるきっかけを作ってくれた。この事件は単にきっかけであったという風に私自身は認識している。
当時は強制入院の制度しかなく、精神科医療で統合失調症の常識は、多くの医者は病識が無いことと考えていた。そのことで言うと説明の困難さを医者の方が強く感じていたと言える。でも、私は少なくともPSWとして全部が病的な状態に支配され、なおかつ病識が無い状況とは考えづらかった。現に関わっていると実はとてもコミュニケーションが上手くいく人たちがたくさんいたからである。このことで言えば、権利侵害を起こすような状況は、精神科医療そのものに在るわけで、そのことを認識したうえで、どのようにかかわるのか、かかわりの問題がPSWにとってとても重要な課題だと思う。これがまず一つ目である。
有野:なるほど。自分たちの関りで、本人たちの状況を変えられる認識をもつことがまずは大事ということですね。
門屋:もう一つは、Y問題が起きてすぐに感じていたわけではないけれど、精神衛生法ができる前までは警察が関与してきたことを、保健所が関与するようになったことにある。保健所は、その部分に非常に大きな力を持つようになった。まさに今のコロナではないけれど、感染症同様に精神病者は危険であるという認識が生まれた基本がそこにはある。業務としての法第29条自傷他害を理由とした強制入院を行使する機関という役割を担わなければならず、その一方で保健所は早期発見から社会復帰まで担うことになっていたので、助ける機能もあった。2つの機能を保健所がやっている限界を強く感じている。
要するに弱い立場にある人たちがいて、社会的権利が侵害されているのが、我々のかかわりやその組織の役割から起きていることを認識するのかしないのかが、社会的復権を我々がどのように考えるのかにつながってくる。その問題を意識していないPSWが非常に多くなってきていると私は認識している。それでPSWなのかと思えるようなことがある。
有野:門屋さんがPSWとして大事にしてきたことは何でしょうか。
門屋:私は精神科病院に22年いた。最初は制度上、強制入院しかない時代だったが、医者と一緒になって病院独自に自由入院を作ろうとした。また病院に本人が来た時に、PSWが最初に会うことをお願いした。精神科病院という“来たくないところ”に連れて来られた本人たちの不安を取り除き、どのような経過で来たのか、本人を交えて話を聞くことに焦点を絞った。
有野:まず本人に話を聞くことを大事にされたんですね。
門屋:次に社会に置かれている本人たちの立ち位置を考えてみた。50年も前の話だが、昔は拝み屋さんや住職にお願いをしてお祓いしてもらったりして、病院に来るのは最後になる。受診したくない場所であるがゆえに遅くなってしまう社会的状況があった。昔は統合失調症にさまざまな後遺障害を残してしまう患者さんを医療が作ったのではなく、社会全体が作りだしてしまっていた。
有野:病院に行きづらい社会状況が背景にあった。
門屋:「人と環境の全体性」という点について、大状況として社会全体の仕組みや制度の問題、小状況として本人や家族の生活の場や関係性、大状況と小状況を組み合わせて考えていくことは、我々PSWには分かるはずであり、その関連性をしっかりわきまえた上で、我々は仕事をしているはずである。いつの世にもあるが、権利侵害や偏見が矮小化されている状況が昔は社会のなかに強くあった。
有野:今の精神保健医療福祉についてどのように考えていますか。
門屋:講演会で私は何度も伝えていることだが、今の精神科医療体制でスーパー救急は医療保護入院6割を維持しなければならない。しかし維持できないから、「この人を医療保護入院にしましょう」という話が実際に起きている。それはおかしいことだし、それに気が付かなければならない。なおかつスーパー救急ができてから、ほとんどが強制入院になり、7万人くらいだった医療保護入院が、今は18万人を超えている。このような状況は絶対におかしい。権利侵害が逆に起きているわけで、増えているわけである。そのことに協会や我々PSWがどのように批判し発言しているかということ。病院のこのような現実に、病院のPSWが何を感じているのかが見えない。そんな状況はぜひ変えて欲しい。
有野:実際に、SW研修やブロック会議、愛知での全国大会に参加している方に社会的復権についての意識調査をしてきましたが、「社会的復権」という言葉が薄れてきているのが表れていました。
門屋:言葉を知らないからと、その人のやっている事が社会的復権に関わることまでやっていないとは思っていない。言葉を知っているからと言って、その人が社会的復権に向けて行動を起こしているのかは疑問に感じている。
総論的に言えば、病院のPSWが地域にいるPSWに比べて、社会的復権をしなければならない人に出会っている確率が一番高いのに、どのような行動をしているのか見えなくなってきている。病院のPSWが自分に唾をすることになるが、この協会のなかには病院のPSWが4割もいる。協会の方針にもっと具体的にこういうことに関して変化を求めるというような活動を示してほしい。
有野:例えば協会はどのような活動をしていくと良いでしょうか。
門屋:現場にいる協会員が何をするかという事も事業として起こさなければならない。その事業として、例えば1年間に一人は1年以上の入院患者の退院支援に「かかわろうキャンペーン」とか、退院支援委員会に一人の入院患者に1回は地域の人を呼んで会議をしましょうとか、やることはたくさんあると思っている。
有野:それはぜひ取り組みたい試みですね。最後に、構成員へのメッセージをお願いします。
門屋:社会的復権についてぜひ検討して欲しい。再考して欲しい、もう一度考えて欲しい。2〜3年前に委員会で私が言ったのか分からないけど、これをきっかけとして現実の現場で働いている人が自分のところで語り合って欲しい。
きっと社会的な権利侵害が起こる状況は、理想的な社会ができれば無くなるかもしれないが、理想的な社会はできないし、しかし理想的な社会に近づける事はできる。そうすると社会的復権を必要とする人はどの社会でもどの時代にも必ず出てくると感じている。
社会的復権は、自分の中では、折に触れて意識して行動してきた。主張してきたと言うか。でもね、本当に、これが正しいのかどうかわからないのが一つと、自分の表現している仕方なんかはなかなか皆さんに分かってもらえない。自分の力の無さだとか、そういうようなものもずっと感じてきている。にも関わらず、他人の力を頼りにしてしまうから、偉そうに社会的復権についてどうなっているか考えるべきだよねと皆さんに振ってしまったりする訳ですよ。私ができない事はもう歳だから皆さんがやってくれれば良い。申し訳ないですね。
有野:きっかけは門屋さんの言葉でしたが、私は改めて自分の専門性や自己を振り返る機会をいただきました。メンタルヘルスの多様な問題に取り組む協会ですが、柱となる部分を見失わずに、これからも協会の活動を盛り上げていきます。ありがとうございました。
荒尾こころの郷病院(熊本県) 平山 徹
先日、協会宛に一通の手紙が届きました。
差出人は、熊本県の荒尾こころの郷病院 平山さん。内容は、「社会的復権を語ろう運動」に関するもので、このWEBコラムを読んで、職場で「社会的復権」について話し合ったところ、とてもよい効果がみられた、とのご報告でした。
その内容はまさに、私たち権利擁護部合同プロジェクトが目指している「社会的復権を語ろう運動」そのもので、私たちは大変嬉しく思い、早速、平山さんにお礼の電話を入れさせていただき、せっかくなのでWEBコラムでより詳しく平山さんの職場での取り組みを紹介させていただくご了承を得ました。
今回は、その取り組みについて、みなさまにご紹介させていただきます。
【熊本県 荒尾こころの郷病院の取り組み】 平山 徹1.経緯当院は、熊本県・福岡県の県境にある昔ながらの精神科の単科の病院です。精神保健福祉士は経験年数3年以下の新人4人と、20年以上のベテラン2人、その間の経験年数に該当するのは私1人だけになります(病院全体ではPSWは11人になります)。そのような環境の中、世代間の支援についての捉え方に解離を感じることも多く、私は、部署の中で唯一の中堅として、自分に何ができるのかと考え、悩んでいました。そんな時に「社会的復権を語ろう」コラム連載を読んだ私は、自身がまだまだ未熟な専門職であることを自覚し、今後どのようにしていきたいのか、「誰のための」「何のため」の専門職であるのかと、改めて考えることができました。そして、このコラムがこの部署の今のシステムに一石を投じることができるのではないかと思惑し、院内の部署で開催されている学習会のテーマとして取り扱うことを企画しました。 2.取り組みの内容 部署では毎月短時間ではありますが、学習会の開催を目標としています。内容は地域の研修会の伝達講習や、その時の旬な話題をテーマにしています。今回、私の担当月に「社会的復権を全国大会記念コラムを読んで考えていく」と題して、「社会的復権を語ろう」のコラムを事前に配布し、各自学習会までに読み込み、感想や日々の支援や業務で感じている想いを共有する場にしました。 3.感想とその後今回のテーマの意見交換のようなことは、私が当院に勤務してから、できた試しはありませんでした。学習会では、それぞれの実践の語り、日々の業務に忙殺され黙殺してきた権利の復権、新人の様々な葛藤やPSWを選んだ想い、と本当に今までにないくらい深い話、振り返りができました。参加者からは下記のような感想が寄せられ、この勉強会が表面的な研修ではなく、それぞれの支援感、アイデンティティという部分も聞くことができ、世代間の考えの差や、各自が大事にしている専門職としての考えを学ぶ貴重な機会となったことがうかがえました。 新人A 新人B 新人C 新人D 中堅E ベテランF ベテランG 嬉しい事に、初心を忘れないために、コラムを常に読めるところに置いておきたいと話すベテランもいました。そして、この学習会の広がりの中で、同室の訪問看護の看護師もコラムに興味を持ち、読んでもらいました。その中で、「自分がなぜ精神科の看護師になったのかを思い出し、やはり精神科看護が好きである」「患者さんと関わる事の大切さ、当たり前の生活の視点を忘れてはいけない」等の意見がありました。 4.おわりに 今回の当院の取り組みを振り返り、改めて思うことは、各所属機関や各都道府県支部でも「社会的復権」をテーマに研修会や茶話会の企画等、ぜひ取り組んでほしいと思います。当院みたいな田舎の精神科でもできたので、他の所属機関でも開催できると確信しています。また、引き続き、この運動が全国に広がることを切に願い、できれば全国大会で、短い時間でも良いので全国から集まった様々な仲間と意見や想いを交わしてみたいと思います。 |
権利擁護部合同プロジェクトでは、各支部や都道府県協会、職場や地域の交流会、有志の集まりやオンライン飲み会など、さまざまな場面で、「社会的復権」について話題にしていただき、私たち精神保健福祉士が目指すものについて考える機会を持っていただきたいと考え、この運動を展開しております。
大小問わず、こんなことやってみました!こんな企画あります!というメールやお手紙を大募集しています。構成員のみなさま、ぜひ声を寄せてください。一緒に、語り合いませんか?
今後も各地で行われているさまざまな取り組みについてご紹介する予定です。乞うご期待!
有野 哲章
(地域生活支援推進委員会 担当部長/蒼溪会)
「パパ、北極星ってすごいんだね」と娘が言ってきた。
「なんで?」と訊くと、「昔の人は、北極星とコンパスで世界中の海を行ったり、来たりしてたんだよ」「ずっと同じ場所にある星なんだよ」と自慢気な顔で話す娘の表情に、何とも言えないほっこりした気持ちになった。
大航海時代と言われたころ、コロンブスがアメリカ大陸を発見したのも、マゼランが世界一周したのも、北極星を目印として自分の位置を知り、コンパスをもって進む方角が分かったからであろう。
「『社会的復権』とは一体何か?」。これまで7人のメンバーが、医療や地域、教育などそれぞれの立場から、自分の実践を振り返り思いを書いてきた。読まれた方それぞれが、いろいろな解釈をされたと思う。結局のところ「『社会的復権』とは何か?」というモヤモヤを抱え、自分の実践を書くことに強いプレッシャーを感じている。
私は高校時代にB型肝炎に罹患した。原因は母子感染であり、微熱が続き受診したら即入院になった。「なんだ?なんだ?」という感じだったのを覚えている。その時に母が「この病気になったことは誰にも言ってはいけないよ」と涙声で話してくれた姿を今も覚えている。母が入院した時代は、この病の原因が分からなかったので、廊下の色が違う病棟に隔離され、食器の色も違い、周囲の人から汚らわしいものをみるような目でみられ、非常に辛い体験だったらしい。今も新型コロナウィルスに関して、言われようのない差別を受けている人たちがいると耳にするが、おそらく昭和30年代後半のB型肝炎は、今の新型コロナと同じような状況だったのだろう。「私に辛い体験をさせたくない」、「こんな病にさせてしまった」と自分を責める母の姿を見るのは辛かった。
結局私は半年ほどの入院治療を受けた。その後復学したが、授業に全くついていけなくなり、勉強ができない自分に腹が立ち「なんで自分だけこんな病になったんだ」と自暴自棄になっていった。本当は自分の頭が悪かっただけなのだが、病を受入れられない自分がいた。
私はこのことで「なりたいと思って病気になる人はいない」「病になったことで、社会からの差別や偏見をうける」と肌で感じ、どんな状況であっても人が人として不当な扱いを受けること、不当な扱いをすることに対し、強い怒りを感じるようになった。私のSWとしての原点は、この実体験に基づく怒りだと思う。
SWとしての実践のなかでAさんとの出会いがある。20代初めに統合失調症を患ったAさん。仕事をした経験もなく、入退院を何度も繰り返していた。Aさんは10数年精神科病院に入院し、宿泊型自立訓練施設からグループホームへの生活を始め、就労継続支援B型事業所で働き始めていた。これがAさんにとって初めての就労経験であり、初任給を得ることができた。正直、宿泊型自立訓練施設にAさんと初めて会った時、ここまでAさんがリカバリーできるとは想像していなかった。
そんなAさんが、就労継続支援B型事業所でもらったわずか数千円の初任給を握りしめて、お母さんと近所のコンビニ行った。「何か欲しいものを買うのかなぁ」と私は見ていた。するとAさんはお母さんに「今まで迷惑ばかりかけてごめんな。何でも好きなもの買っていいよ」ってつぶやいた。お母さんは感極まって泣き崩れ、私も泣いてしまった。そこにいたのは長男として母親を守るステキな男性だった。長く入院していたとしても、人間が生きる力の可能性を信じなければいけないと学んだ。
私は「精神障害にも対応した地域包括ケアシステム構築支援事業」の広域アドバイザーをさせてもらっている。これまでも地域移行を愚直に進めてきた。精神保健福祉士として、世の中が良くなることは勿論、社会的入院を解消していくことが使命だと感じて活動している。しかし、そんななかで心無い声にもぶつかってきた。
「地域移行支援をそんなに進めたいなら、保健所に頭を下げにこい」と言われ、また「退院させられる人はもういない。地域移行支援ばかりが精神保健福祉士の仕事ではない」と話す年長者にも遭遇した。入院中の患者さんたちの前で、同じことを言えるのかと強く叫びたい気持ちになった。
本人自らがメンタルの不調を訴え外来受診し、本人も入院希望しているのに「手続き上の判断だから」と医療保護での入院を強いられてしまうことも度々ある。家族と離れ、自立した生活を目指してアパートを見つけて引っ越し目前だったが、障害福祉サービスのサービス担当者会議の場で「うちの市は精神障害者の転入は認めないから」と、話し合いの場でひどい言い争いを市の障害福祉課職員としたこともあった。
腹立たしい私の気持ちが収まらない相手は、全員が精神保健福祉士だった。同じ精神保健福祉士であっても、なぜこんなにも考え方が違うのか、怒りと悲しさでこの仕事が嫌になったこともある。社会を変えていける力が欲しいと願った。
言葉には力があり日本文化は、それを言霊と呼んでいる。大野さんや門屋さんがインタビューで語ってくれた『社会的復権』(※詳しくは、PSW通信No227に掲載/2020年7月発行予定)には、お二人がつくってきた魂と力、実践をヒシヒシと感じた。日本精神保健福祉士協会は、『精神障害者の社会的復権』を成し遂げることを目的に国から認められた公益社団法人であり、そのため協会の定款にも記載している。
要するに、日本精神保健福祉士協会は、社会的復権を成し遂げる団体だ、ということだ。
精神保健福祉士という資格ができ、SWと名乗るシカクがある人がどれほどいるだろう。国家資格に合格したことが力ではない。私たちは社会的弱者と呼ばれる人に寄り添い、やはり力を合わせて『社会的復権』を成し遂げることに力を注ぎたい。
精神保健福祉士とは何をする人なのか。人間が生きる当たり前の権利と向き合って、権利を守ること、権利侵害に敏感になることが精神保健福祉士の生業だと考える。
『社会的復権』という言葉は、私たち精神保健福祉士にとって『北極星』だと思う。いつの時代になってもそこに辿りつくことはできない。そこを道標として、医療、福祉、教育、労働、司法、保健などの分野で、それぞれのコンパスをもって新しい時代を目指す旅の途中にいると思う。どこに辿り着くのか、どんな風に辿るのかは、一人ひとり違うことであろう。しかし私たちの道標となるのは『社会的復権』である。『社会的復権』について、いつまでも語り合おう。そして社会的入院をなくし、精神障害者がごく当たり前に生活できる社会を実現させよう。
もしも私の娘が精神保健福祉士になった時、「パパの時代は、社会的入院って言葉があったの?」と語ってもらえるような、新しい時代を築きたい。
新型コロナウィルスの影響で、2020年北海道大会は1年延期になりました。
このWebコラムは、「社会的復権」をテーマに継続しますので、ぜひ楽しみにしてください。そしてこのコラムを使って、ぜひ周りの精神保健福祉士と「社会的復権」について語り合ってください。
岩尾 貴
(精神医療・権利擁護委員会 委員長/くらし・しごと応援センターはるかぜ)
私の父はPSWで、私は子どもの頃に精神科病院の隣に住んでいて、病院の患者さんたちは身近な存在だった。その病院は、開放化に取り組んでいて、入院患者さんたちは、自由に買い物に出かけ、病院の中に患者さんたちが運営するサロンがあり、天気のいい日はソフトボールをしており、よくそこに交ぜてもらって遊んでもらった。病院では、バザーや夏祭りなどが地域住民の参加のもと行われており、参加するのが楽しみだった。患者さんたちは、私によく声をかけてくれたし、とてもやさしくしてくれていた。またその病院は、認知症の人のケアにも取り組んでいて、高校生の時に病院併設の認知症専門の老人保健施設でトイレ掃除のアルバイトをしながら、認知症の人たちと交流していた。
一方、友人たちは、入院している患者さんを差別用語で呼ぶことがよくあり、また学校の先生が「そんなことをすると○○病院に入れるよ」と言ったこともあった。社会は、病院や患者さんたちのことを差別的にとらえており、私の知る患者さんと世の中の精神障がい者のイメージは大きく違っており、世の中では理解されていないことを感じていた。
大人になるにつれて、PSWである父が病院の開放化や共同住居、作業所の設立、家族会、断酒会の支援や認知症の人のケアなどに取り組んでいることを知り、私も患者さんの役に立つ仕事がしたいと考えPSWを目指した。
福祉系の大学に進学し、柏木昭先生に師事し、精神医療の歴史や日本は精神科病院の病床数が多く入院期間が非常に長いこと、住む場所や働く場などの支援が制度施策として脆弱であることを学び、私が子どもの頃から感じていた社会の精神障がいに対するスティグマや、差別偏見による病気や障がいの理解の無さが、地域の中で暮らすことを一層困難にしていることを知った。そして、何よりも当事者とかかわりを持つことや自己決定の重要さを学んだことは、私自身の実践基盤となった。さらに、Y問題を教訓化し、PSWおよび協会活動の基本方針として「精神障害者の社会的復権と福祉のための専門的・社会的活動をすすめること」を学び、人権と権利擁護について意識するようになった。
学生時代に見学したやどかりの里では、病気や障がいがあっても「ごくあたりまえの生活」の実現を目指し、多くの長期入院者がここを拠点として、アパートで暮らしていた。加賀のぞみ園では、認知症の人のどんな行動もいわゆる「問題行動」とはとらえず、行動の意味を考える「かかわり」を重視して理解することにより、行動を制限せず生活を保障しようとする取組を行っていた。PSWはクライエントが自らの生活問題に主体的に取り組み、またどのような地域生活を送るかを自らが選択することを支持する立場に立つものであり、ソーシャルワーカーとして何よりも関係性を軸にしたクライエント自己決定の原則が実践理念の中核であることを私は師から学んだ。
大卒後、県立の精神科病院に就職した。病院がある地域では、ようやくグループホームを一つ立ち上げるような時で、精神保健福祉士の国家資格化の少し前だった。社会資源は少なかったが、不動産屋や職親を患者さんと一緒に訪ね、地域に訪問に出かけ、時間があれば病棟で過ごした。病棟での相談からアパートや仕事探しなど生活にかかわることなら何でもやった。職親制度を使って仕事をする人が増え、借りられるアパートも少しずつ増えていった。当時、賃貸契約や就職活動の際、精神科受診歴を伝えるかどうかを話し合うことも多かったし、職場で薬を飲む姿を見られたくないからと薬をやめ不調になる人もいた。障がいをかかえて暮らすことの生きづらさは、障がいに対する理解に乏しい社会に起因することもあるのだと思った。一方で、理解してくれる不動産屋や職親は貴重な存在であった。当事者が地域で暮らし、働くことで地域住民や雇用者との間にかかわりが生まれ、理解が得られていく、そこに伴走することがPSWの役割であり、当たり前の暮らしを奪われていた精神障がい者の当然の権利を回復するという私自身の実践のあり方でもあった。
就職してから20数年が経った今、住むところや暮らすことを支援する施設や制度は随分増え、多くの人たちが退院し、地域で暮らすようになった。それでもなお精神科病院に入院している2/3の人たちが1年以上退院できずにいる。高齢化が進み長期入院者の半数以上が65歳以上である。医療の構造の問題なのか地域支援の弱さなのか、それともほかに欠けているものがあるのか。何が精神障がい者の復権を妨げているのだろうか。
県職員として20年の間、行政の仕事にも携わったが、精神科病院からの地域移行は思うように進まず歯がゆい思いをし、当事者と共に地域から現状を変えたいと考え、民間の事業所に転職することにした。
Aさんは「終の棲家」と言われる特養から脱出した。ケアハウスに転居し、私の勤める事業所の就労継続支援B型事業所を利用し、施設外就労で病院内のレストランで働いている。力を発揮できずにいたAさんは自らB型を利用し、本来の生活を取り戻そうとされた。私の勤める事業所や特養のPSW等が地域で暮らしたいというAさんの真のニーズを支援した結果だと思う。特養などの施設には地域や家族の都合により入所を余儀なくされている人もいる。所謂“権利の行使”が社会の仕組みにより奪われている方が多くいる。現在のAさんの姿は、障がいがあり高齢になっても諦めなかったAさんの意思と支援者の可能性へのチャレンジがB型への就労に結び着いた結果である。私たちPSWは当事者の求めている生活の実現へ向けてどのようにチャレンジし続けるかが問われていると考える。PSWは当事者が自ら取り組むプロセスに寄り添い、社会的権利である当たり前の生活を取り戻すために協働する。そのための受け皿となるトポス(場)を創造する。当事者の経験の語りを受け止め、かかわり続ける。私はそのような実践家でいたいと思う。
※「障害」表記は、執筆者の記載のとおりに掲載しました。
尾形 多佳士
(権利擁護部部長/さっぽろ香雪病院)
北海道の大学在学中に「精神保健福祉士」という新しい国家資格が誕生したことを知った。社会福祉士を取得してMSWになることを目指していた私は、「よく分からないけどもう一つ資格を得るチャンスだ」と単純に喜んだことを覚えている。3年生からは両資格を得るために、谷中輝雄先生と佐々木敏明先生を中心とする著名な講師陣による新カリキュラムがスタートした。二人の恩師は「Y問題」や「札幌宣言」、そして「社会的復権」というキーワードに特別な思い入れを込め、そのエッセンスを熱く伝えてくれた。PSWとしての情熱を肌で感じ、優しく温かい人の輪の中でY問題や札幌宣言の重要性が心に刷り込まれていった。しかし、「社会的復権」の言葉の持つ意味を深くは理解していなかったように思う。
4年次には浦河町という北海道の小さな田舎町で精神保健福祉士の実習をした。総合病院のMSWとして、また精神科部門でのPSWとして、さらにその町のコミュニティソーシャルワーカーとしての顔を持つスーパーバイザーである向谷地生良さんの実践に私は惹かれていった。ある日、興奮状態で複数の看護師に押さえつけられ、抵抗しながらも保護室へと連れていかれそうな若い患者さんが、「向谷地さん呼んで!向谷地さんと話をさせて!」と必死に助けを求めた。院内PHSで呼ばれた向谷地さんは、彼の元へ急行し、「〇〇くん、助けにきたよ!」と一声を放ってすぐに面接を開始した。数十分間、向谷地さんは彼の話をひたすら傾聴した。時に彼の言動を肯定する言葉を投げかけていた。面接を終え、すっかり落ち着きを取り戻したその患者さんは何事もなかったかのように元の病室(4人部屋)へと帰っていった。一連の様子を見ていた看護師、そして、その患者さんの安心した表情は今でも忘れられない。その後の振り返りの中で、向谷地さんは「すぐに薬や注射、隔離や拘束という手段に頼ってしまうことが多いけど、私は『対話』を大切にしているんだよ」と教えてくれた。一人のPSWの面接(対話)が患者の症状をも回復させる可能性があることを実感し、私も将来はこういう実践をしたいと強く憧れた。精神保健福祉士として病院で就職することを決めた一つのきっかけだった。
大学を卒業した私は札幌市内の病院に精神保健福祉士として就職した。実習先で見てきた精神科医療(NO拘束、NO長期入院)や地域の精神障害者の暮らし(病気や障害を開示して地域に溶け込む)、PSWとしてのクライエントとのかかわりやスタンス(物理的・心理的距離)の何もかもが違い、戸惑いを覚えた。「普通」や「当たり前」って何だったんだろう?と疑問を持つようになった。「この人はどうして毎日拘束されている?」「なぜみんな口を開けて一列に並んでいる?」「強制入院なのに何で医療費は患者さんが支払うの?」「せっかく退院できるのにどうしてアパートを貸してくれないの?」「買い物しただけで隣のコンビニから苦情?」
とにかく「なぜ?どうして?」がしばらくは頭の中を駆け巡っていた。そして、自分が生まれる前から入院している患者さんや「一生病院でいい」と言ってしまう何人もの患者さんと出会い、学生の頃に習ってきた社会的入院や長期入院という国家的課題を目の当たりにした。
学生の頃の教育と現場での実感から、精神保健福祉士の使命は「長期入院の解消」であると捉えていた私は、一心不乱に実践しようとしていた。この役割は病院PSWの責務であると思っていた。しかし、そう意識する日々はほんの束の間で、いつしか「退院できない現実」が本当にあることに気付かされた。病院の管理者や主治医の方針、家族の反対、本人の退院意欲、地域の受け皿等の問題は思った以上に根深く強固で、病院スタッフの退院を推し進める熱意のなさや、長期入院者を迎え入れるはずの行政や地域の福祉職の意識の乏しさが後押しし、しだいに私は無力感に苛まれて多くを諦めていった。心の中で言い訳をするかのように「仕方ない」とも思うようになり、これまでの「疑問」も感じなくなっていった。自分の非力さを正当化し、長期入院者が退院できないことは仕方ない、隔離も身体拘束も強制入院も仕方がない、「だって他に方法がないじゃないか」「退院したら家族や地域が困る」「浦河と札幌は違う」「制度がそうなっている」「違法じゃないんだ」と疑問を持つこと自体に蓋をして、見て見ぬふりをするようになってしまった。
まだ退院は早いと思うのに期日内に退院先を探すことを求められたり、逆に退院準備を進めたいのにまだ早いと主治医から釘を刺されたり、いくつものジレンマを感じながら自分のメンタルヘルスを保つために職場に順応することが何より優先された。あれだけ疑問に思っていた現実から目を背け、経営側に立った考えに侵され、地域や社会という視点が欠如し、理想とは程遠い実践だと自覚していた。そんな折、地元のPSW協会や地域の連絡会等でどんどん活躍する大学の同期や後輩らに刺激を受け、「このままではダメになる」と思い、就職4年後、谷中先生に師事することを決意して大学院に進学した。そこで「ごく当たり前の生活」を目指した実践の重要性を復習した。「ごく」という言葉に込められた意味を再認識した。それは、その人らしい生活を保障すること、その人自身が大切にしている生活を尊重することであり、私はこれこそが「社会的復権」なのではないかと思うに至った。社会的復権とは、狭義には「長期入院の解消」であり、広義には「ごく当たり前の生活の実現」であると思う。何をもって当たり前とするかは個々によって異なる。しかし、これが当たり前の現実なのか、当たり前の姿なのか、当たり前の選択なのか、当たり前の実践なのか、その人にとってのごく当たり前の状況なのか、このようなことを絶えず考え吟味し検証する。そして、志を一にする専門職仲間やクライエント本人とこのことを語り合い、ごく当たり前の生活を伴に求め続けることが重要である。自分の使命であると捉えていた「長期入院の解消」に寄与できない現実に疲弊して自信を無くしていた私だが、「ごく当たり前の生活」という概念に深く出会って視野が広がった。もっと身近なところで、やれる範囲で頑張ればいいと思うようになった。私はクライエントの「ごく当たり前の生活の実現」という「揺るがない目的」を持った精神保健福祉士のすべての実践が社会的復権への関与だと思う。
金川 洋輔
(地域生活支援推進委員会 副委員長/地域生活支援センター サポートセンターきぬた)
高校を卒業してしばらくふらふらとした後、何となく心理学系3年制の専門学校に入った後にたまたま精神科クリニックのデイケアに就職することになった。偶然にもその年に精神保健福祉士という国家資格ができたということを耳にしていたが自分には関係ないことだと思っていた。数年後、自分の先々を心配してくれた職場の先輩の精神保健福祉士や、何人ものメンバーさん達が背中を押してくれたおかげで資格を取得することができた。
仕事に就いて4年目に地域生活支援センター立ち上げのスタッフとして関わることとなり、5年目に今の職場に移った。6年目の時、急に東京都から「退院促進モデル事業」を引き受けて欲しいという打診がセンターに入った。その時は“事業所連絡会とかで先輩たちが言ってた社会的入院の解消ってやつのこと?”ぐらいの認識だった。それから今日まで様々な機関の方々の力を借りて地域移行支援に携わってきたが、自分が関わって退院することができたのは今も全国に約17万人いると言われている長期入院者の内のわずか200名弱程度の方たちでしかない。しかも、内数名は死亡退院である。
自分が出会ったとき、AさんはB病院に6年ほど入院していた。“もうわたしは退院できないので放っておいて欲しい”と言い続けていたそうだが、病棟チームが年単位で声をかけ続け、東京都の精神障害者地域移行促進事業を利用して自分に繋げてくれた方だった。「わたしが退院できる確率は5分5分だから放っておいてくれていいのよ」という口癖のAさんに声をかけ始めた。入院前に暮らしていた街に外出支援を繰り返し、その度に暮らしていた頃の思い出話を聴く中で、「入院前に随分周りに迷惑かけてしまったみたいだからもうわたしは退院しちゃいけないのよ。」と教えてくれた。
その後、「そうね、病院は暮らす場所じゃないわよね…でもね、それでもわたしが退院できる確率は5分5分なのよ?」と言ってくれたAさんと「5分5分って50%もあるじゃないですか!その確率を60%、70%に上げるのはこっちの仕事だから十分です!」といった自分とのやり取りを経て、病棟と協働して入院前に暮らしていた街で数回体験外泊を実施した。Aさんは「それでも5分5分よ」だったが、いつしか「このままだと本当に退院できちゃうわね」といった言葉や笑顔も沢山見られるようになり、支援は順調そのものに進んでいると思い込んでいた。
ある日Aさんが腹痛を訴えて、近くのC外科病院に検査入院で転院した。検査結果は、末期がんだという連絡が入った。C外科病院へ行くと自分の顔をみてAさんは、うっすら微笑みながら「わたしね、末期がんらしいの。あとイレウスもね。」「まさかこんな形でB病院を退院することになるとはねぇ。B病院のみんなは元気?」「だからわたしなんかに関わらない方がいいって言ったじゃない。」「あなたは大丈夫?」と言葉が続いた。よくよく聴いたら、Aさんが退院できないことによって、自分が誰かから怒られたり評価が下がるのではないかとAさんは心配してくれていた。自分が聴いたAさんの最後の言葉は「退院できなくてごめんなさいね。」だった。
どうしてAさんが謝らなければいけなかったのか、どうして自分は何も悪くないAさんを謝らせるような支援しかできなかったのか、どうしてもっと早く出会って退院していただくことができなかったのか、望んで病気になったわけでも障害になったわけでもないのに退院したいという希望すら遠慮して言えないような世の中なのか…というやるせない気持ちと自分自身の無力感とに打ちのめされた。今でも時々Aさんのことが頭を駆け巡る。
15年程前にとある精神保健福祉士の先輩から「自分は就労支援をしているので退院支援は関係ない」と言われたことがある。果たしてそうだろうか?
今や精神保健福祉士の職域は多様に拡がっている。どれもが社会的復権や社会的入院の解消に繋がっていると自分は思っている。直接的な地域移行支援のみが社会的入院の解消に繋がっているわけではない。 “私は就労支援をすることで地域移行支援に関わっている”、“私は教育現場から社会的入院の解消に携わっている”といったような意識があれば、どの機関で業務を行っていてもその根本に大きな差異はなく、精神障害者の社会的復権に向けた取り組みだと考えている。
とはいえ、自分は「精神障害者の社会的復権」を狭義に絞って「社会的入院の解消」にこだわりたい。もう「退院できなくてごめんなさい」と言って逝く方を生み出さないこと、そのためにも人生の一部を分けて教えてくれたAさん達の思いを持ち続けて「社会的入院の解消」を自分の中心に据えて発信し続けること。その発信の中で多くの精神保健福祉士が直接的な地域移行支援だけでなく、普及啓発や間接的な支援でもそれぞれが行っている、行える活動があると意識を向けてもらえるようにすること。それが自分のこれからも取り組む社会的復権に向けた活動でありたい。
田村 綾子
(担当副会長/聖学院大学)
私の最初の職場は神奈川県西部にある精神科病院だった。上司と、当事の理事長の大野和男さんから勧誘されて断れず、日本精神医学ソーシャル・ワーカー協会に入会したのは平成のはじめのこと。その後、全国大会に毎年参加するうちに研鑽の重要性を実感したし、「精神障害者の社会的復権と福祉のための・・・」というフレーズは何度も見聞きしていた気がする。けれど、協会の委員会活動や理事会に参加するようになるまでは、日々の実務でこれを意識することはなく、ただ「精神障害者の社会復帰」を使命感としていただけだ。しかし、PSWとして多くの入院患者さんの相談にのり、退院支援や金銭管理、ご家族との関係や主治医に話せない悩みなどを聞き、働きたいという人と院外作業先をいっしょに見学したり生活保護申請の同行等々を重ねるなかで、やるせない思いを日々抱かされた。
精神病になったがために、なんでこんなに我慢しなきゃいけないのか、狭い空間だけで暮らさなきゃいけないのか、変な疑いをかけられたり不必要に力のない人と思われたり・・・。彼らが不当に差別的な扱いを受ける現状には「おかしい」と思うことがあまりに多かった。
私自身は、いわゆる中流のサラリーマン家庭で両親に愛されて育ったと思う。妹たちとケンカしても仲は良かったし、家族で誕生会をしたり父の日・母の日に贈り物をする習慣もあった。それが「ごく普通の」生活だと思って、なんの疑問もなかった。
なのに、ここ(精神科病院)ではそれらが「ない」。
こういう世界に初めて身を置いたのは、大学3年の精神科病院での実習のときだ。退院できない患者さんが多数いることは既に習っていたが、こんなに元気にソフトボールもできる、カラオケできれいな声で歌える、笑顔でおしゃべりできる人たちが、なんで?という疑問は、やがて憤りに変わっていった。
バブル絶頂期の超売り手市場のなか、就職先に精神科病院を迷わず選んだのは、一握りの使命感、加えて入院患者さんたちとの気どりや世間体の要らない対話に居心地よさを感じたからだ。この対話を病院の外でできたら、もっと楽しくて気持ちいいだろうと思った。
社会に再び帰ることと、社会的な権利を取り戻すことは、似て非なるものだろう。
「復権」とは、人が生まれながらに有する、人としてのかけがえのなさを大切にする思想の具現化だと思う。この幅は、その社会の成熟度や豊かさや寛容さに応じ、また、社会にいる人びと一人ひとりの暮らしの豊かさ、満足度、知性やふところの深さに応じて振幅する。無知が他者を排除することもある。それで古い体験を思い出したので記したい。
障害者自立支援法が施行されて間もないころ、地元市町の障害程度区分認定審査会で、精神障害のある10代の女子(依存症)の審査中に座長である医師が言った。
「これからは、こういう(依存症のような、本人の行いのせいで障害者になった)人まで支援しなきゃいけないのかねぇ。」
彼女の生育歴のなかでどれほどの苦労があったのか、数年にわたる入院で失ったものの大きさはいかばかりか、審査を経て障害者として介護給付を受けようとするまでにどれだけの支援者がかかわり支えてきたか、もちろんそれらは審査会では詳細にわからない。
―もしかしたらとんでもない不良娘で非行の果ての依存症かもしれないけれど、そんなことは関係ないの。疾病や障害の理由をいちいち問い、自己責任なら支援を給付しない、なんてことをしていたら、長年喫煙して肺がんになった人だって保険診療は受けられなくなるじゃん。わかってんのかね、そういうこと―とは言い返さず、ただ、こう言った。
「どの障害も、その理由は問われませんよね。それに、精神科病院には今日審査した身体・知的障害の方より、明らかに程度の軽い障害者が多数います。この方たちがやっと他障害並みにサービス給付の対象となって社会に戻ってこられるかもしれません。ありがたいです。」
いま大学1年生に、精神障害者がいわれのない偏見や差別的な処遇の歴史を背負って生きていることをあれこれ工夫して教育している。多くの学生は「そんなのおかしい」「もっと社会復帰させるべき」「諸外国並みに地域生活支援体制を作ってほしい」と感想を述べる。
一方で、相模原事件の後も京アニ事件の後も、報道やネット情報に影響されてか「精神障害者を簡単に退院させないでほしい」という反応が多くなる。
このギャップを埋めなくてはならない。
今年1月、相模原障害者施設殺傷事件の被疑者の公判が始まった。事件の再発防止に向けた検討会での3年前の議論とまとめ、措置入院ガイドラインの作成に至る一連の経過は、異様に速やかに精神疾患の発生予防と発症者の早期発見や再発防止の施策に集約された。精神障害が理由の犯行だったのか、事件の再発防止策の内容は裁判で明らかにされる事実とマッチするのか。裁判の確定後に改めて検討会は設置されるのか。動向を見続けたい。偏った情報操作の陰で尊厳を奪われる人があってはならない。「知らない」ことがときに大きな罪を誘発する。
私が教えている学生の大多数は精神保健福祉士にはならず、精神保健福祉分野で働くこともないだろう。であればなおさら、非専門職の一般市民にこそ、精神障害者に対する差別や偏見の歴史と精神科病院の実態、そして、そこに留め置かれている一人ひとりの「声」や「姿」を伝えなくてはと思う。教員としての私が、いま、日々できる社会的復権に向けた取り組みはこれだと信じている。
徳山 勝
(地域生活支援推進委員会 委員長/半田市社会福祉協議会 半田市障がい者相談支援センター)
本協会の掲げている精神障害者の社会的復権は未だ成し遂げられていません。周りを見渡せば、多くの「社会的入院」や「賃貸住宅の貸し渋り」「世の中の根強い偏見」「機会の不平等」「良質な精神科医療の不足」などが目につきます。このことを解決するために掲げた目標が「精神障害者の社会的復権」であると私は理解しています。ある尊敬する大先輩が「(このような)状況を変えることが、精神保健福祉士の使命であると信じて活動してきた。それができない精神保健福祉専門職は専門職とは認めがたい」と仰ってました。私はその通りだと思います。
一方で、社会的復権の主役である精神障害者(以下、当事者)は、社会的復権についてどう考えているでしょうか。先日ある当事者Aさんからこんなことを聞きました。「私たちって社会的復権をされる立場なんですね」。私はその事を聞いて大きなショックを受けました。ここ最近、精神保健福祉士の仲間たちと「精神障害者の社会的復権」について話し合う機会は増えたのですが、私自身が当事者の方々とそのことについて話し合う機会が無くなっていたことに気づいたのです。
今から11年前に精神科病院から委託相談支援事業所(現在は基幹相談支援事業所)に転職した私のところに、当事者Bさんが訪ねてきてこう言いました。「せっかくこの病気(統合失調症)になったんだから、その経験を活かしたい」私はその言葉を聞いて精神保健福祉士としての強い使命感に駆られました。そして「当事者が経験を活かしてチャレンジできる場所や機会」を作るための当事者グループをその方達と一緒に作りました。数人の当事者が定期的に集まってそれぞれの経験を話したり、悩みを相談したりしてリカバリーを助け合いました。入院した仲間に会いにいって「地域で待っている」事を伝えに行って退院意欲を高めたり、市外にもネットワークが広がっていき順調でした。しかし何でもそうですが良いことばかりではありません。メンタルの調子を崩す人、人間関係で悩む人、不満が募る人、バーンアウトしてしまう人、そのような状況を見てこの当事者活動に批判的意見を言う方達もいました。今振り返って考えてみると、そういった好ましくない状況を変えようとして、当事者の活動を活性化させるのではなく、批判的な関係者への対応に意識が向いていたと思います。数年が経った今、立場や環境の変化もあり社会的復権について考える時に、支援者や環境へのアプローチに意識が傾きすぎていた事を当事者Aさんの話を聞いて気づかされました。
社会的復権は何のために行うのでしょうか?誰のために行うのでしょうか?このことについて当事者は何を思っているのでしょうか?精神障害者の社会的復権のためには、当事者と協働しながら、環境へのアプローチと当事者が力をつける(エンパワメント)両輪の取り組みが必要だと思います。今回の社会的復権を語ろう運動では当事者とも話して頂けると良いと思います。本協会の活動にも当事者が主体的に関わる取り組みが必要性ではないでしょうか。
今回、本協会の目的である「精神障害者の社会的復権」をどのように進めていくかを考える良い機会を頂いたと思っています。冒頭にもありますが、37年前に目標に掲げた当初の環境とは随分と違ってきました。法律の改正や国民の意識変化もあります。私は、そういった中で我々精神保健福祉士が日々実践しているソーシャルワークが、当事者に対してどのように影響しているのか?精神障害者の社会的復権に向けて進めているのか?当事者の方々が自ら権利擁護や自己実現できる力を増やせているか?を常に意識していきたいと思います。
精神障害者の社会的復権に向けて、私は自分が生きているうちに精神保健福祉士として社会的入院の解消を目指します。そのために今私が取り組むことは福祉から地域を変える事です。いろんな所(小学校区から全国区まで)に精神保健福祉士として出しゃばっていきたいと思っています。
最後に、社会福祉協議会の基幹相談支援センターで精神保健福祉士の主任相談支援専門員として地域福祉にどっぷり浸かって思うことは、精神障害者の権利擁護を本気で考えている専門職の大半は精神保健福祉士ということです。精神保健福祉士の皆さんは日々の実践で今何を目指しますか?
山本 めぐみ
(精神医療・権利擁護委員会 副委員長/浅香山病院 医療福祉相談室)
精神保健福祉士の第1回国家試験が行われた1999年、私はソーシャルワーカーとして病院に就職した。就職後まもなく日本精神保健福祉士協会の倫理綱領を精読し、「精神障害者の社会的復権とは何か?私にできることは何か?」と考えはじめた。
初めて担当した閉鎖病棟には、何十年も入院している患者さんがあふれており、とても彼らの権利が守られているとは思えなかった。「退院して地域で暮らすこと」が社会的復権だと考え退院支援に取り組み、一人の男性が10年以上の入院を経て退院することができた。精神障害者の社会的復権に少しは寄与できたのではないか、と私は喜んだ。しかし、ある日彼に「通院先を変わりたいけど、先生にダメだと言われた。」と悲しそうに相談された時、通院先さえ自由に選べない状況に置かれていることに気づき、愕然とした。退院できても権利侵害はあらゆるところで起きていた。本人でさえも気づかないうちに。人が人として当たり前に持っているはずの権利が、精神障害があるというだけで簡単に剥奪されてしまう現状を認識し、彼らが本来持つ権利を行使することができて初めて「社会的復権」なのだ、と理解するに至った。
その後も退院支援の取り組みを続けながら、いかに退院後の生活を自分らしく過ごせるかを本人と共に考えてきた。
ある女性は恋をしたが、周囲は、お金目当てではないか?と交際を猛反対した。彼女は「それでも一緒にいられたら嬉しいの。」と、とても満足げな表情で話した。その顔は「患者さん」ではなく「恋する女性」そのものだった。私は彼女の恋を応援しながら、生活が破綻しないよう見守った。恋をすることも、大切な本人の権利のひとつである。
また、ある女性は、高速バスで3時間かかる郷里に帰り、娘と再会することを望んでいた。反対する家族や主治医と何度も話合いを重ね、実現することができた。数年ぶりに娘と再会した彼女は、「娘にお小遣いをあげた」と誇らしげに語ってくれた。その顔は「母の顔」であった。
私は、居場所がなく自宅にこもりがちだったある男性と何度か一緒に喫茶店に行った。彼は人付き合いが苦手だった。ある時彼が「勇気を出して1人で店に行ったら、マスターと漫画の話で盛り上がった。」と嬉しそうに話してくれた。彼は「地域住民」であり「常連客」となった。
社会の中で「患者」としてだけ生きるのではなく、さまざまな顔を見せてくれる彼女たちに私は救われてきた。その一方で、精神科病院で「患者」として一生を終える人も多くいるのが現状である。私一人だけが参列する葬儀を経験するたびに自責の念にかられる。そして、長期入院は人と人との繋がりを失わせてしまう悲しいものであり、長期入院の解消は精神保健福祉士の責務であると痛感する。
現在は急性期病棟を担当している。そこには生活に疲れ果て、自ら精神科病院での長期入院を希望する人すらもいる。それほどこの社会には精神障害を抱えながら生きる人にとって過酷な現状がある。通院しながら働くしんどさを理解してもらえず退職し絶望した人、友達とのコミュニケーションが上手く取れず居場所を失った人、家族関係が破綻し孤独に陥った人、生活が苦しくなり生活保護の相談に行ったが断られ、死をも考えた人…。
私は、彼らが再び社会の中に居場所をみつけ、生きる力を取り戻せるよう意識して今も関わり続けている。そして、彼らが再び生きていきたいと思えるような社会に変えることが「ニューロングステイ(新たな長期入院者)」を生み出すことを防ぎ、精神障害者の社会的復権へとつながるのではないかと考える。
私たち精神保健福祉士は、彼らが抱える暮らしにくさの根底にどんな問題が潜んでいるのかを考え、「これって、おかしくないですか?」と同僚らと疑問を投げかけ合わなければならない。そうすることで、同じ疑問を抱えている精神保健福祉士等の仲間の存在を知り、 「私のクライエント」が抱える苦しみや困難が、この社会を生きる多くの人に共通する生き辛さであり、社会の課題であると気付くことができる。そして、どこにどう申し入れようか?と具体的な行動に移す手立ても見つかる。日々の実践は単なる「私のソーシャルワーク」ではなく、社会の課題の集積であり、社会を変える第一歩なのだと自覚し、「私たちのソーシャルワーク」としての行動を起こすことで精神障害者の社会的復権を目指したい。
吉澤 浩一
(地域生活支援推進委員会副委員長/相談支援センターくらふと)
私は、大学在学中に精神保健福祉士(以下PSW)が国家資格化され、卒業と同時に資格を得た。札幌市内の精神科病院と併設の精神障害者地域生活支援センター職員として社会人1年目をスタートした。
在学中は、実習や諸先生から受けた影響もあり、卒論としてソーシャルワーカーがセルフヘルプグループの社会資源化にどのように関与できるか等を軸に調査研究に取り組み、病院を含む地域の様々な活動にアクセスした。その中で、多くのPSWが、当事者が地域生活の実現や社会参加等の権利を行使できるようにと実践していることを体験的に学んだ。福祉労働者として二重拘束性があるとされる病院PSWも然りであり、とても輝いて見えた。さすがに真似できないと思ったが当事者がより社会の一員として生活が送れるようにと地域づくりを促すためその地域の住民になるPSWもいた。
社会人なりたての頃に「精神障害者の社会的復権」をどれほど意識していたかはあまり覚えていないが、この権利支援を実践していた先輩方のPSWとしての在り様が自分の実践の根底にある。
新人の頃はおそらく思いが先行していた。利用者に積極的に向き合い、地域の方にも協働イベントを企画する等積極的にかかわり理想のソーシャルワークを目指そうとしていたかもしれないが、一方で病院への働きかけや、自分の価値基準と異なる職員等との連携はなおざりであった。数年経ち、退院促進のモデル事業が始まり「入院医療中心から地域生活中心へ」と政策理念が掲げられるなかで、改めて精神保健福祉士の目的に立ち返り今までのなおざりな実践を直視し、恩師・先輩から教えを乞い、同期・後輩と毎週のように理想のPSW像を求め学び直そうとした記憶がある。
PSWの意義を再確認するなか、地域との連携、教育や就労の領域も今でいう地域移行支援と関連付けて捉えるようになったが、なかなかうまくいかないことが多く「本人には地域生活・社会生活の体験、家族や支援者には地域生活へ向かう手掛かりとなるアセスメント情報を得る機会がもっとあれば」と「お泊り機能付き相談支援」の構想を持ったのはこの頃だった。
2009年に私事にて東京へ身を移すことになり、当時おおよそ7400床だった札幌市と違い病床ゼロという江戸川区の状況に戸惑いを覚えたが、「病床が無いなら尚更必要」と区単独のショートステイ事業を担当し「お泊り機能付き相談支援」を実践し始めた。当然マネジメントには各支援関係者、地域住民、病院、行政との連携が必要であり、各関係者をまわり、地域にネットワークを持つ方の協力を得、受入れから地域生活までの支援過程を整理し病院には啓発をした。江戸川区行政は当時「相談支援は行政の仕事」という捉え方であったが、民間事業所が行う意味もあると働きかけを続け、一方で相談支援事業所を設立し区内の相談支援事業所と連絡会を立ち上げソーシャルアクションを進める基盤を整えた。また有志と新たに小回りの利く相談支援事業所を別に立ち上げ、数年後に地域移行支援の専従職員を配置し、東京に移り10年程経った今、毎月15件以上の地域移行支援を実践している。
協会の目的として「精神障害者の社会的復権」が掲げられ40年近く経ち、この言葉の意味を問い直す目的で調査や啓発活動が進められているが、精神保健福祉士法に精神保健福祉士の業として地域移行支援が位置付けられているように、社会的入院・長期入院の解消と予防は精神保健福祉士にとって軸ではないかと思う。精神保健福祉士がどのような立ち位置にあってもソーシャルワーカーとして本来の役割を果たしながら―かかわる当事者とその方を取り巻く環境、地域社会へ働きかけながらそれを推し進めることが「精神障害者の社会的復権」へ向けた実践だと考える。その実践を積み上げていきたい。